本『ミラノ 霧の風景』

『ミラノ 霧の風景』
著 須賀敦子
白水uブックス

須賀敦子は『コルシア書店の仲間たち』、『トリエステの坂道』、
それからこの『ミラノ 霧の風景』と発表順不同に読んできているのですが、
どれもイタリア時代の彼女をめぐる人々の断片なので、
『コルシア書店』にも当然でてきた同僚のガッティやアントニオ、ルチアの話や
『トリエステの坂道』で詳しく書かれている夫の家族の住んでいた鉄道官舎など、
あっちの本ではさらっと書かれていることがこちらには詳しく書かれていたり、
逆にこっちの本では背景まで説明していなかったことが、
別の本では主になっていたりして、全体を通して読むと、
コルシア書店と彼女の夫ペッピーノ家の一大叙事詩みたいになる。

須賀敦子の魅力というのは第一に、文章が読んでいて気持ちがいいということなのだが、
書かれている内容は、路地裏の小さな道から始まる回想から、
その街で生まれた詩人のエピソードになり、その詩人をめぐる友人の話へとつながり、
と流れるように話が飛ぶ。

彼女の語る町の風景が、ミラノにしてもヴェネツィアにしてもナポリにしても
旅人のそれや、観光客ではなく、暮らす人の視点につらぬかれているのも魅力。
彼女が語るとヴェネツィアもきらびやかな都市ではなく、
町の人たちがひっそりと秘密を抱えた古ぼけた町のように見える。

日本人にはほとんど理解できない階層や人種の織り成す社会を
異国人であるがゆえに彼女がかろやかに横断して、
上流社会の人々の暮らしも、貧しい家庭から出てきた青年の物語も
同じ国のそれぞれの側面として同列に描いてみせているのもおもしろい。

『ミラノ 霧の風景』は須賀敦子のデビュー作だが、
日本オリベッティの広報誌に連載されていたもの。
オリベッティ?と思うのだが、そのオリベッティとも
浅からぬ縁で須賀敦子がつながっていることが本書に出てくる。

本『母なる夜』

『母なる夜』
著 カート・ヴォネガット
訳 池澤夏樹
白水uブックス

ヴォネガットが好きだという女性から「『母なる夜』について語りたいから読んでみて」
と勧められました。私が今まで読んだヴォネガットは『タイタンの妖女』、
『スローターハウス5』、『タイムクエイク』あたり。
『母なる夜』は池澤夏樹訳と飛田茂雄訳があるのだけど、
ネットの感想をみると飛田訳のほうが評判いいですね。私が読んだのは池澤訳。

第二次大戦中、ドイツのラジオでプロパガンダ放送をしていて戦犯とされた主人公
ハワード・キャンベル・ジュニアの手記、という形式。
彼は実はアメリカのスパイで、プロパガンダ放送をしながら、
せっせとアメリカに情報を送り続けていたので、罪を逃れ
十四年間、ニューヨークでひっそり暮らし……、
現在、イスラエルで裁判を待っているところ、から始まる。

読了した後で、最初の「編者の注記」(カート・ヴォネガット名義で書かれている)を読むと
誰がスパイで、誰が死んでといった「ネタ」は最初から公開されているのがわかる。

ハワード・キャンベル・ジュニアはナチの英雄として崇められることや
殺したいほど憎まれることはあっても、アメリカのスパイとしての功績を称えられることはない。
劇作家としての彼の功績は過去のものだったはずだが、
それは彼の知らない場所で評価されていた。
彼は属するべき国も政治的信条ももたない。
唯一、信じられるべき妻への愛、親しい人たちの友情もすべて失う。

そんな恐ろしく絶望的な話なはずなのだけど、全体のトーンは
ヴォネガットらしいユーモアとアイロニーでつらぬかれていて、
悲劇ではなく、ブラックジョークかのようにみえる。
実際、読んでいる間はずっとなにかのコメディーみたいに読んだ。

『スローターハウス5』はSFの形式で、戦争を描いているわけだけど
『母なる夜』はまるでスラップスティック.・コメディーのように
戦争の(というより人間の?)愚かさを描く。そこがすごい。

化学物質をめぐる若い警察官との対話は
戦争の愚かさについての寓話なのだけど、
ここも一見するとコントのようにトークが続き、
そこに込められてるものに泣きたくなる。

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本『マインドフル・ワーク』

『マインドフル・ワーク
「瞑想の脳科学」があなたの働き方を変える』
著 デイヴィッド・ゲレス
訳 岩下慶一
NHK出版

最近流行りの“マインドフル”について、
グーグルやfacebookなど企業での活用事例、
仏教など宗教を源泉とする歴史、
瞑想が脳にどんな影響を与えるか最新の瞑想神経科学による研究などを解説。

“マインドフルネス”とは「完全に現在に存在すること」、
「特定のやり方で、意図的に、この瞬間に何ら判断を加えることなく注意を向けること」
などと定義されている。
もともとは仏教でいうところの“念”にあたり、英語で“マインドフル”と訳され、
それがさらに日本語で“気づき”と翻訳されるので、意味がわかりにくい。
具体的には瞑想によって呼吸に意識を集中するトレーニングをつむことで、
ストレス軽減、集中力、他者への思いやりが深まるなどの効果が上げられている。

スティーブ・ジョブズの例をあげるまでもなく、
ヒッピー文化を通して、禅へ関心をよせるアメリカ人は多い。
近年(2010年ごろ)になって、それがマインドフルとして、シリコンバレーを中心に
企業にとりいれる動きが流行りだした。
主には企業幹部がトレーニングを受けたり、社内に瞑想ルームを設けて
従業員がマインドフルを受講できるようにしたりする企業が増えているという。
本書では、そこらへんの企業の取り組みを具体的に取材している。

著者は若いときにインドで瞑想を学んだことがある一方で、
『ファイナンシャルタイムズ』や『ニューヨークタイムズ』で経済を追いかけている。
マインドフルが万能であるという礼賛にならず、
ビジネスでの活用、脳科学の研究を客観的に紹介している。

また、“マクマインドフルネス”とよばれる批判も紹介している。
マインドネスは宗教から切り離されることで、一般にも広く受け入れられたが、
本来の意味を失った瞑想を批判する声も多い。
流行として商業的に消費されることに「オーガニック」の二の舞では
とも懸念されている。

マインドネスが流行るということは、それだけ現在は集中できない環境であり、
ストレスフルだということだ。

私はちゃんとしたトレーニングを受けたことがないけど、
「今、自分がしていることに集中する」と意識してみると、
いかに「今に集中していないか」に気がつく。
たとえば、仕事中でも他の作業のことを考えていたり、
歩いているときでも別の考えにとらわれて、新しいお店ができたことにさえ
気がつかないといったことはよくある。

ネットとかスマホとか、集中できない環境を作り出したシリコンバレー企業が
こぞってマインドフルネスによる精神の静寂を求めるというのは
ちょっと皮肉な感じもする。

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本『ジュンのための6つの小曲』

『ジュンのための6つの小曲』
著 古谷田 奈月
新潮社

こちらで紹介していた1冊。
実際に読むまではジュンって女の子だと思っていました。

学校では「アホジュン」と呼ばれ、その言動が「気持ち悪い」と思われている少年ジュン。
でも生まれながらの「音楽家」であるジュンの中ではいつも音楽が鳴っていて、
夕空や飛んでいく野球のボールや電線にとまったスズメたちからも
彼は音を集めて歌にする。
そんなジュンが同級生のトクと、彼のギター「エイプリル」に出会い、
少しずつ世界を広げ、自分の歌を唄いだす物語。

音を色にたとえたり、数字から音楽を聞き取ったりする人たちの話はきいたことがありますが、
ジュンはガムボールマシンや、床屋の前でグルグル回る「ロラ」からも音を聞き取る。
オンチの私からしてみると、歌や音楽でつながっていくジュンの世界は
まったくうらやましい限り。

登場人物、みんな魅力的だけど、
個人的には音とリズムで打楽器のようにしゃべるカンくんがいい。
小説全体が音とリズムと色に満ちていて、目で聞く音楽になっている。


本『エンジン・サマー』

『エンジン・サマー』
著 ジョン・クロウリー
訳 大森 望
扶桑社海外文庫

「決めの一行」のスゴ本オフで紹介されていた一冊。
「本を閉じることがこれほど惜しいと思ったことはなかった」
「絶版なので図書館で借りましたが、この本をまた誰かが借りて読むかと思うとぐっとくる」
ということで、私も図書館で借りてみました。

紹介者の方があげていた一行はこちら。

「教えて。ぼくはなんなの?
<しゃべる灯心草>。
それじゃあ答えにならないよ。
いま真実なのはそれだけ。」

これだけ読んでもなんのことかわかりませんが、読み終わったあとだと、
この「真実」は深い意味をもっていることがわかります。

しゃべる灯心草とかコードとかリトルベレアとか、
固有名詞が多く、世界観がわかりにくいので、最初のうちは物語に入っていくのが
なかなか難しかったのですが、あとから考えるとこれはわざとそういう構成になっている。

「灯心草」と呼ばれる(おそらく)少年が、「天使」と呼ばれる少女(らしい)に
自分の生まれた故郷「リトルベレア」、そこに語り継がれる物語、
自分の旅を語るという話なのですが、これも最後まで読むと「真実」がわかる。

天使はクリスタルの切子面に彼の語る物語を記録していくのですが、
今だとICレコーダー、この小説が書かれた1979年だと
カセットテープレコーダーだと考えるとわかりやすい。
そんな感じにファンタジーの衣装をまといながら、物語は現代を反映しているようです。

「電話。その時代、天使たちが昇降機に乗り、距離を越えて話し、
連帯を求めれば求めるほど、孤独がつのってゆくようだった。
世界がせまくなればなるほど、おたがいのあいだの距離が広がるようだった。」

「こうしてコープの人々がたがいの距離を縮めるにつれてわかってきたのは、
この機械(エンジン)を使ってだれかと話すのは、
面と向かって話すのとはちがうということだった。
電話でなら、面と向かっていえないことがいえる。思ってみなかったことをいってしまう。
嘘をつくことも、針小棒大にいうこともできるし、誤解されることもある。
なぜなら、人間にではなく、機械に向かって話しているからだ。
電話を正しく使う方法を学ばなければ、コープは立ちゆかないと彼らは思った。」

〈絵具の赤〉が語る、昔あった「電話」の話など、インターネットのことにも思える。
この反省を踏まえて、リトルベレアの人々は
「口にするとおりのことを心に思い、心に思うとおりのことを口にする」
「真実の語り」を身につけています。

読み終わって私が一行選ぶとするなら、
<灯心草>の恋人<ワンス・ア・デイ>の言葉。
「いまが春よ」

これもこれだけ読んでもなんのことかわかりませんが、
そもそも魅力的なタイトル『エンジン・サマー』とは日本でいう「小春日和」、
英語でいう「インディアン・サマー」をこの世界ではこう呼んでいる。

「ささやかな、いつわりの夏。ささやかな、いつわりのものだからこそ貴重な夏。
リトルベレアではそれを―だれも知らない理由から―
機械の夏(エンジン・サマー)と呼ぶ。
たぶん、終わりのない夏に思えるからだね。」

「愛がけっして終わらないものだと考える人にとっては、
べつに不思議なことじゃない。愛は季節とよく似ている。
そんなことがありえないのはわかってるさといくら自分にいいきかせても、
この季節はけっして終わらないという気がすることがあるから。」

「春になったら」とぼくはいった。「もどってくるね」
「いまが春よ」

恋人たちの永遠の夏、エンジン・サマーへの別れの言葉ではないかと思うのです。


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本『燃えるスカートの少女』

『燃えるスカートの少女』
著 エイミー・ベンダー
訳 管 啓次郎
角川文庫

ここ数年注目されているエイミー・ベンダーの最初の短編集。
タイトルに惹かれて読みたいとずっと思っていた一冊。

「私の恋人が逆進化している。誰にも話していない。
どうしてそんなことになったのかわからないけれど、
ある日まで彼は私の恋人だったのに、その次の日には猿になっていた。
それから一か月がたち、いまは海亀。」

『思い出す人』の冒頭がこんな感じで、一気にその世界に引き込まれる。
登場人物たちはそれぞれ少し変わっているけれど、
その孤独感は地に足がついているというか、不安にさせられるようなものでもなく、
ある部分では共感すら感じる。

エイミー・ベンダーの小説を説明するのは難しいが、
訳者のあとがきと解説がうまくそれを表現している。

「とっても不可解で、超現実的で、暗く、
でも同時に明るいユーモアにみちて、深く真実。」
(訳者あとがき 管 啓次郎)

「待っていたものとは異なるなにかがいきなり手許にやってきても、
それを不可解だと思わず受け止め、あって当然のものがいきなり
どこかへ消えてしまっても、それをさびしさと呼ばずに黙って呑み込んでいる。
ある意味で、彼ら、彼女らは、孤独とは言えない。
家族であれ恋人であれ友人であれ、まわりにひとがいて
そのなかに自分がいることのあたりまえさを、自然さを、ありがたさを、
またそれゆえの残酷さをも理解している。にもかかわらず、
彼らは触れ合いの持続よりも、その静かな崩壊の持続のほうに、
より大きな価値を置いているのだ。」
(解説 堀江敏幸)

『どうかおしずかに』の一文はこんな感じ。
「女は図書館員で今日、彼女の父親が死んだ。彼女は朝、
泣いている母親から電話をもらい、吐き、それから着替えて仕事にきた。
背中をぴんとまっすぐにしてデスクにむかい、いつもベストセラーを借りるために
図書館にくる若者に彼女はとても礼儀正しくたずねる、
最後にセックスをしたのはいつだったかとたずねる。
彼は妙な声を出し彼女はシィーッという。ここは図書館ですよ。」

驚くことにこの文章を私は父が亡くなった日に読んだ。
朝、母から電話をもらい(私の母は泣いてなかったけど)
1週間ほど休むためにも仕事を片付けなくてはいけないので
会社に向かう電車の中で、読みかけの本を開いたら、この短編だった。
図書館員の彼女は殺したいほど憎んでいた父の死を受け止めきれず、
図書館にやってくる人と次々にセックスをするのだけど、
もちろん、私はそんなことはしないけれど、
まだ全然、父が死んだという現実感のないフワフワとした中で読むには
この短編はぴったりだった。
父が亡くなった日にこの短編を読む人もそんなにいないと思われるので
この偶然をなんとなく幸運なことのようにも感じた。


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本『月をマーケティングする』

『月をマーケティングする』
著 デイヴィッド・ミーアマン・スコット、 リチャード・ジュレック
日経BP社

1969年7月20日、アポロ11号は月に着陸した。
これに前後するアポロ計画を「史上最大にして最も重要なマーケティング・PR活動の事例」
としてとらえ、NASAの広報活動、映画、小説の影響、
雑誌、テレビの果たした役割、NASAの提携企業の活動を丹念に追っている。

最初はこのタイトルを「人類を月に送り込む」という壮大な計画を
NASAがどのように政治家や国民にPRしたか、という風に受け止めていたのだけど、
後半になって、アポロ計画そのものが冷戦時代にアメリカという国を
宣伝するための壮大なPR活動だったのだとわかった。

「つまりアポロ計画は、国家の命運がかかった広報プロジェクトという
要素が大きかった。だからこそ、アポロ計画のこうした存在意義を理解していた
人にとっては、アメリカ人が月面に最初の足跡を残したあとに、
もう一度月に行く理由が見出せなかったのである。」

世界中が見守ったテレビ中継が当初はプロジェクトの妨げになると
NASA内部でも反対派が多かったこと、
(宇宙で撮影できるテレビカメラをもっていくだけでも重量、技術的な問題がある)
アポロ11号の盛り上がりとともに、人々の関心が急速に冷めていったこと
なども興味深い。

宇宙から地球を撮影した有名な1枚も当初は撮影計画になく、
乗組員が美しい地球の姿にあわててシャッターを切った様子が紹介されている。
そして、地球の写真を公開するように運動したのが、かのスチュアート・ブランド
であり(彼はのちに『ホール・アース・カタログ』の表紙にこの写真を使う)
その写真こそが遠くの月よりも自分たちが暮らす地球の問題へと
人々の目を向けさせたという皮肉な状況も伝えている。

「公開された「地球の出」の写真に世界が強い感銘を受けた時期に、
こうした一連の出来事が起こったのである。その結果、人間は今こそ
自分たちの星におこなっていることに目を向けるべきときなのに、
なぜ生命もいない寒々とした不毛な月の調査に莫大な労力と費用を
注いでいるのか、と疑問がもたれはじめた。」

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本『ここは退屈迎えに来て』

『ここは退屈迎えに来て』
著 山内 マリコ
幻冬舎

地方都市に暮らす女の子たちを描いた短編集。

私はよくも悪くも東京生まれの東京育ちなので、地方で暮らすことが実感としてよくわからない。
親が田舎暮らしをしているので、それが憧れだけで成り立つような生活でもないことはわかるが、
そこで成長したわけではないので、地元の友達みたいな感覚はやはりわからない。

登場する女の子たちの「ここではないどこか」、「自分ではない誰か」に漠然と憧れながら
(『アメリカ人とリセエンヌ』、『地方都市のタラ・リピンスキー』といったタイトルが象徴的)
地元のぬるさになんとなくつかりながら、自分探しとかしちゃうわけでもない感じがよい。

場所も時間軸も少しずつ違う彼女たちをつなぐのは“椎名一樹”。
地元で育ち、みんなの中心でありながら、そのまま地元の普通のお父さんになる椎名くん。
彼はこの“退屈”から連れ出してくれるかもしれない女の子たちの憧れなのだが、
やはり彼もどこにもいかない。

タイトルも表紙も素敵で印象に残っていた本。
すでに文庫化されてますが、単行本の表紙がやっぱりよい。


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本『悪意の糸』

『悪意の糸』
著 マーガレット・ミラー
訳 宮脇裕子
創元推理文庫

原題は『Do Evil in Return』。
巻末の解説によると、W.H.オーデンの詩「1939年9月1日」の一節で、
Those to whom evil is done
Do evil in return.
「悪を為す者は、必ずその報いを受ける」
といった意味らしいです。

どんな悪が為され、どんな報いがあったのかとなると、
報いとしては大きすぎないかなというのが読後の印象。
出てくる人みんなちょっと不幸で、悪人もいるけど報いとしては気の毒。

1951年の小説ですが、
主人公が30代の女医で、知性も魅力もあって自立しているのに
40代の既婚者と隠れて不倫している。
対する奥様は、花と犬に囲まれた豪邸から一歩も出ない
保守的で、従順で、気の利いたことはあまり言えない退屈な女性。
という構図は少し前のドラマなら定番だろうし、今でも通用しそう。

ミステリ仕立てですが、今読むとそこはやや物足りなく、
主人公が罪悪感を抱えながら、それでも毅然と
事件に巻き込まれていく感じが読み応えがあります。

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本『すべてのニュースは賞味期限切れである』

『すべてのニュースは賞味期限切れである』
著 速水健朗、おぐらりゅうじ
アスペクト

ウェブサイト『cakes』の時事放談をまとめたもの。
都知事選、佐村河内守ゴーストライター事件、ソチ五輪、『いいとも』最終回、『テラスハウス』、
『アナ雪』、アイスバケツチャレンジ、W杯、ヘイトスピーチ、イスラム国、乃木坂46スキャンダル
などなど、2014年の出来事を炎上もおそれぬ自主規制なしで語り合っている。

最初に思ったのは、私、2014年のニュースを見出しレベルでしか知らないということ。
ツイッターとかあまり見なくなったとか、毎日会社に行ってるわけではないので、
世間の出来事について語る機会が減ったとかあるのだけど、
最近では、ニュースの第一報は、妹が「どこどこでこんな事件があったよね」と話はじめるのが主。
それもネットのどこかで拾ってきたようなコネタばかり。

おぐらさんが本書で語っているとおり、超情報社会でも自分が関心ないことは
スルーできちゃうというか、情報として入ってこない。
さすがに今年はもう少し世間にコミットしようと反省しました。

都議会のセクハラヤジはその中でも結構覚えてるニュースなんだけど、
これはヤジに頭にきたとかではなく、
その騒がれ方がバカみたいだったということで印象に残ってる。
このニュースはFacebook経由で知ったのだけれど、「ひどい」と怒っているのはほとんど男性。
女性からすると「いつものこと」で、なんで今さらそれぐらいで騒ぐの?という感じ。
(ここまで酷くなくても、女性なんて「結婚しろ」「子供産め」ってどこかで言われてます)
怒ってる男性たちは、もちろん自身の正義感から正しく怒っているんだと思うけど、
「私はそんなセクハラはしない」っていうポーズも感じて、だいぶ冷めた目で見てました。

ハロウィン、W杯のところで言われていることですが、
「ネットのコミュニティが現実のコミュニティの在り方に影響を与えてる」
のが現在の流れではありますね。
そういった変化とか、ニュースの消費のされ方のスピードとかが
本書の対談からも見えてきます。

あと、個人的には、みたままつりが今年(2014年)最高の人出で、
今後の開催が危ぶまれているっていうことがちょっと気になりました。
数年前はまだ余裕で楽しめたんですが、
たしかに最近は人多すぎて、まったく歩けなくなりました。

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本『月を盗んだ男』

『月を盗んだ男』
著 ベン・メズリック
訳 高山祥子
東京創元社

NASAのジョンソン宇宙センターから月の石が盗まれた。
犯人は恋人に「月を贈る」と約束した、23歳の研修生。
2002年に実際にあった事件を描いたノンフィクション。

内容よりもまず著者ベン・メズリックに引かれて手に取った。
ベン・メズリックは映画『ソーシャル・ネットワーク』の原案『facebook』の著者。
Facebook関連本はその後山のように出版されているが、
メズリック本はそのなかでも早かったのと、マーク・ザッカーバーグが取材を拒否したため、
彼に裏切られた人々の視点から描かれていていて非常におもしろかった。
映画『ソーシャル・ネットワーク』はこの原作本が出版される前に版権を買い取り、
Facebookの原型がエリート大学生たちの社交クラブであること、
ひとりの女性を振り向かせたいがために、マークがFacebookを作ったことを描いていた。

そういう前提もあってこの本を読むと、構成としてはよく似ている。
NASAの研修生という、エリート集団、
その中で目立つために行動をエスカレートさせていくサド。
彼は出会って数ヶ月の女性のために犯行におよぶ。

貴重な月の石を盗み出し、10万ドル(大金ではあるけど、
宇宙飛行士になれるかもしれなかった未来をすて、
一生を棒にふってもいいほどの額ではない)で
売ろうとしたサドの行動は、ほとんど理解できない。
メズリックは、彼が研修生になるまでの過程と、
研修生たちの生活をていねいに描いて、その理由を探ろうとしているのですが
やっぱりよくわからないというのが感想。
彼女の前で格好をつけたかったというのは、あまりに単純じゃないですか。
犯行そのものよりも、NASAの研修生生活の部分のほうがおもしろく、
NASAという特殊環境が彼を少しずつ傲慢にしていった感じもする。

私は知らなかったけれど、さすがにこれだけの盗難事件なので、
検索するとノンフィクションドラマやサドのインタビューをもとにした記事などもみつかる。
本書ではレベッカと名前を変えてある彼女ティファニーを
映画化したら誰が演じるのか、キャスティングを考えてみるのもおもしろい。

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本『孤独の価値』

『孤独の価値』
著 森 博嗣
幻冬舎新書

『スカイ・クロラ』などで知られる小説家であり、工学博士でもある森 博嗣。
数年前に引越しをし、家族以外にはほとんど人にあわず、半分隠退生活を送る森が、「孤独とは何か」、「寂しいとどうしていけないのか」「孤独からしか生れないものがある」と語る。

孤独といっても、食事作ってくれる家族が側にいる生活は孤独といえるのかとも、もちろん思うわけだし、経済的に余裕があるから、わずらわしいから会いたいと思わない人には会わないという選択もできるのだろう。
そもそもこれを書いたのが森でなければ、手にとらないだろうし、彼がいうからこそ、「孤独の価値」というのにも意味がある。


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本『残花亭日暦』

『残花亭日暦』
著 田辺聖子
角川文庫

2001年6月から2002年3月まで、日記という形をとった田辺聖子のエッセイ。
最初のうちは新刊の宣伝のために行なわれる対談や、講演、原稿など仕事の話をまじえた日々がつづられているのだが、旦那さんに悪性腫瘍が発見された8月から、彼を見送るまでの記録となる。

旦那さんは足を悪くしており、数年前から闘病生活を送っている。
年老いたお母さんもいらっしゃり、田辺聖子は人を雇い見てもらいながら、大量の仕事をこなし、彼の入院する病院へと通う。
介護というのは体力的にも精神的に辛い仕事だ。
愛する人が居なくなってしまうという寂しさと、この忙しい日々もそれで終わるのだという想い。
多少の罪悪感や後ろめたさを感じながら、彼を人に見てもらい、休養の小旅行に出かける嬉しさを率直に書いている田辺聖子。
会話がだんだん成り立たなくなっていく旦那さん。
悪化する病状の合間に、やってくる講演、原稿の仕事。

ここらへんは読むのが辛く、なかなかページが進まなかった。
愛する人を見送る、それは長いお別れだ。


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本『インド夜想曲』

『インド夜想曲』
著 アントニオ・タブッキ
訳 須賀敦子
白水uブックス

【私のハマった3冊】お湯が身体を温めるスピードで心を温めてくれる“風呂本”
紹介されていたので読んでみました(宣伝乙)。

失踪した友人を探してインドを旅する幻想的な物語。
旅行記のようでいて、それはどこにもないインド。

「人間一生のうちには、ホテル・スアリに泊まるということもありうる。
その時はそのことがさして幸運とは思えないだろうが、
思い出のなかでは(思い出というものはいつもそうだが)、
あの匂いや色彩や洗面台の下にいる昆虫など、
直接的な肉体感覚がある程度濾過されてみると、
なまの印象はうすまって、現実よりはましなイメージができあがる。
過ぎさった現実は、大体において、実際にそうだったよりも改善される。
記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない。
こうして、いくつものホテルが僕たちの空想の世界を満たしている。
コンラッドやモームの本に出てくるホテル。
キップリングやプロムフィールドの小説からとったアメリカ映画のホテル。
僕たちは、まるでそこに行ったことがあるような気がしている。」

おそらく実名のホテルもたくさん出てくるし、
巻頭にはその名前は地名まで明記されているのに、
作者がはたしてインドを旅したことがあるのか疑うほど、
それぞれのホテルは夢の中に出てくるようにとらえどころがない。
旅の途中ですれ違う人々もどこか夢の中にでてくる人のよう。

それでも不思議な旅に連れてってくれるという意味で
これはまぎれもなく旅行記なのです。


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本『ナラタージュ』

『ナラタージュ』
著 島本理生
角川文庫

高校のときに恋をした先生に大学生になって再会し、
想いを募らせる女性の物語。
冒頭から過去を振り返る設定なので、
高校の話に戻ったり、1週間前の出来事が語られたり、
時系列が多少行ったりきたりする。

先生に恋をするといっても、強く共感している仲なのに、
先生側の事情や弱さによって、結ばれることがないふたりなので、
ほのぼのとした片思いではなく、不器用な大人たちの恋愛。

ヒロインにも先生にも小野君にも柚子ちゃんにも共感できず、
彼らの行動がうまく納得できなかった。
個人的には葉山先生より小野君に好感をもつけど
大学生の頃だったら、むしろ弱さやずるさを含めて先生に惹かれるのかも。
ヒロインと小野君が少しずつ親しくなっていく感じの描写が細かく
大学生の頃を思い出しました。

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