本『羊と鋼の森』

羊と鋼の森

『羊と鋼の森』
宮下奈都
文藝春秋

前情報なく読み始めたので
「羊と鋼の森」が何を意味するかわかったところで、おーっという感じ。

映画化してるけど主人公や双子よりも
秋野さんの配役が気になると思ったら光石研。わりと納得。

本『クマのプーさんと魔法の森』

クマのプーさんと魔法の森

『クマのプーさんと魔法の森』
C.ミルン
岩波書店

(現在、絶版。内容はだいぶ違うと思うけど
『プーと大人になった僕』公開にあわせて再販すればいいのにな。)

『クマのプーさん』の原作は、大人への道を歩きだそうとする
クリストファー・ロビンが森を出ていくところで終わる。
実在のクリストファー・ロビンはあまりにも有名な子供になってしまったため、
物語の中の少年のイメージにずっと苦しむことになる。

本書は1974年、54歳のクリストファー・ミルンが書いた自伝。
父A.A.ミルンが亡くなるまで絶縁状態だったというC.ミルンだが、
この本ではクリストファー・ロビンだった自分をきちんと受けとめているようで、
父への複雑な想い、プーが生まれた背景となった田舎での少年時代を綴っている。

父の名前が重すぎて作家にはならなかったC.ミルンだが(なんと本屋になる)、
森の描写は詩的で美しい。
一度、ここから離れて、過去の自分と決別しなければいけなかったことを思うと
プーの物語のラストがより切なく感じる。

「プー、ぼくのことわすれないって、約束しておくれよ。ぼくが百になっても。」
プーは、しばらくかんがえました。
「そうすると、ぼく、いくつだろ?」
「九十九。」
プーはうなずきました。
「ぼく、約束します。」と、プーはいいました。
『プー横丁にたった家』


» 続きを読む

本『海からの贈物』

海からの贈物 (新潮文庫)

『海からの贈物』
アン・モロウ・リンドバーグ
新潮文庫

須賀敦子『遠い朝の本たち』で取り上げられていた1冊。
飛行家リンドバーグの妻であり、自身も飛行士であり、
6人の子供の母であるアンが休暇で訪れた離島で綴った書。
エッセイというより深い思索に満ちている。

吉田健一訳について、『遠い朝の本たち』の解説末盛千枝子は
「男性文学者の手になるのが残念」と書いているが、アンの思想は
フェミニストというより男前なのでこの固い文体があっている気がする。
(「女性的でわかりやすい」と評される落合恵子訳は
意図的な意訳が多すぎる説もあり。現在、絶版。)

リンドバーグといえば1932年に有名な誘拐事件で長男をなくしている。
この本が書かれたのは1955年。
1957年頃から夫リンドバーグは長年にわたる愛人との交際を始めている。
夫婦が向きあうことについて書かれた部分なんかもそう思って読むとなかなか意味深である。

» 続きを読む

本『トム・ソーヤーの冒険』

トム・ソーヤーの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
トム・ソーヤーの冒険〈下〉 (岩波少年文庫)

『トム・ソーヤーの冒険』
マーク トウェイン
岩波少年文庫

お前なら行けるさトム 誰よりも遠くへ〜♪

子供向けの本がうちにあったので何度か読んでいるはずのトム・ソーヤー。
岩波少年文庫版をあらためて読んでみると、
教会や学校の描写にマーク・トウェインらしい風刺が散りばめられていて、
ここらへん子供が読んでもあまりおもしろくないだろうなという感じ
(大人が読んでもあまりおもしろくない)。

エミーに夢中だったのにベッキーが転校してきたとたん、
エミーに冷たくしてベッキーを口説き始めるとか、トムって結構嫌なやつ?
そんなトムの気を引くため別の男の子と仲良くしてみせるベッキーもどうなのか。
(ここらへんは子供向け本では適当にぼかされていたんだろうと思う)

それでも家出して海賊ごっこをしたり、殺人事件に巻き込まれたり、
宝探しをしたり、洞穴で迷子になったりといったあたりの展開は
さすがにめちゃくちゃおもしろい。

混血のインジャン・ジョーが悪者だったり、
ハックが黒人ジェイクをいいやつだと言いながら
一緒に食事をするところは見られたくないと言うあたりが
1876年南部の物語だと思う。

表紙イラストはノーマン・ロックウェル!

本『日のあたる白い壁』

日のあたる白い壁 (集英社文庫)

『日のあたる白い壁』
江國香織
集英社文庫

江國香織の絵画エッセイ。
ホッパーの絵を「旅人のなつかしさ」と言うあたり、
この人は書評にしても絵画評にしても説明しにくい感情を的確に言葉にすると思う。

「旅人のなつかしさというのはつまり、不安や疎外感を前提としたなつかしさ、
対象には拒絶されているなつかしさだ。」

ドラクロワの『花の習作』やマネの『海にとび込むイザベル』、
ムンクの『お伽の森の子供たち』など、代表作ではなく、
こんな絵も描いてたんだ!的な作品を取り上げているのも江國香織らしい。

ピエール・ボナール展が9月にあるのでちょっと行ってみたい気になりました。

本『遠い朝の本たち』

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

『遠い朝の本たち』
須賀敦子
ちくま文庫

須賀敦子のエッセイはいつもラストが見事だと思う。
えっここで終わり?という唐突さと同時に、これ以外にないという終わり方をする。

本書で取り上げられていて読んでみたいものメモ。
『即興詩人』
『サフランの歌』
『ケティー物語』
アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈物』
『戦う操縦士』
ジョルジュ・サンド『愛の妖精』

» 続きを読む

本『寂しい生活』

寂しい生活

『寂しい生活』
稲垣えみ子
東洋経済新報社

著者の稲垣えみ子さんが
「自書を図書館で借りた読者に会ってショックを受けた」
と書いて炎上したことは知っているのですが、図書館で借りました。
まったり断捨離中で本を増やしたくないだけで、
この本にお金を払う価値がないと思ってるわけではもちろんないです。

清貧生活を推奨している稲垣さんが図書館を否定するなんて!
と非難されたわけですが、この本には
「(購入して)読み終わった本は古本屋に売ったり図書館に寄贈、
ブックカフェに持ち込んで所有しない」
「自分にとって大切なものを提供してくれる人には
応援券としてお金を投資する」
と書いてあるので、図書館を否定してるわけではなく、
「よいと思ったならお金を払ってほしい」という
著者としては至極まっとうな意見かなと思います。

著者のように冷蔵庫やエアコンを捨てることはさすがにできませんが、
断捨離ブームの今ですら何かを捨てることにはそれなりの痛みを伴います。
そのものがもってた何か(便利さだとか贅沢だとか
幻だったとしても夢や希望とか)も一緒に捨てるわけですから。
その痛みもちゃんと書かれたうえで
本当に必要なものは何なのかを真摯に問うているところに打たれます。

本 『暦の歴史』

暦の歴史 (「知の再発見」双書)

『暦の歴史』
ジャクリーヌ ド・ブルゴワン
創元社

教科書的でちょっと読みにくいので大雑把にメモ。
テルミドールって何かのコミックにでてきたような。

地球の自転周期が1日の長さを決め、
月の公転周期が1ヵ月、太陽を回る地球の公転周期が1年の長さになる。
これらは天体観測によって計測できるが、3つの周期に数学的関連はないし
(月の公転周期と地球の公転周期は当然ながら無関係)、
周期も一定ではない(1日は23時間59分39秒から24時間0分30秒まで変わりうる。
1日が24時間なのは平均値に過ぎない)。

3つの周期のバランスをどうとるか、
そのままではずれてしまう暦に閏月や閏日をどうはさんで調整するかで暦が作られる。

1朔望月(新月から次の新月まで)はおよそ29.5日なので、
太陰暦の1年は30日と29日を交互に並べた12ヵ月で構成される。

1週間が7日なのはバビロニアとユダヤ教から。
週は自然の規則性に基づかず完全に人工的に定められた。

昼と夜が12時間で1日が24時間なのは、1太陽年が12朔望月に当たること、
古代バビロニアでは60進法が使われていて60の約数である12が選ばれたという説も。

フランス革命暦では十進法が用いられ、
1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒。
月は葡萄月(ヴァンデミエール)、熱月(テルミドール)など
詩的な名前がつけられたが、短期間で挫折している。

暦は農作業の日程や祝祭日の決定に関わり、
暦を作成することができた聖職者や権力者の力は大きく、
政治と宗教の影響を受けずにはいなかった。

本『フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠』

フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠

『フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠』
マイケル・モス
日経BP社

食品会社がいかに塩分、糖分、脂肪分を駆使して
加工食品の〝至福ポイント〟を作り出しているかという話。

ソーセージ、チーズ、クラッカーがセットになった
子供向けランチ商品『ランチャブルズ』は、
ネットの写真を見る限りスナック菓子にしか見えないんですが、
アメリカの子供たちは遠足のお弁当にこれを持ってくるんだそうです。

読んでるとお腹がすくのでスニッカーズ。
でも買う前に食品成分表示くらい見て
自分が何を食べてるのか自覚しようとは思います。

» 続きを読む

本『マチネの終わりに』

マチネの終わりに

『マチネの終わりに』
平野啓一郎
毎日新聞出版

天才ギタリストと国際的ジャーナリストの「大人の恋愛」
というシャレオツ設定や理屈っぽい台詞で装飾されているものの、
中身は安っぽいメロドラマでまったくのれませんでした。

イラク戦争やユーゴスラビア紛争が
メロドラマの世界観だけのために使われているのもいらだたしい。

早苗は嫌な女だと思うけど、洋子のほうが嫌い。
経済学者の夫にサブプライム・ローンの倫理観を説くとか「知的な」女のすることだろうか。

「ブッキッシュで、いやな女ね、わたし。」
そのとおりだ。

本『彼女たちはなぜ万引がやめられないのか?』

彼女たちはなぜ万引きがやめられないのか?

『彼女たちはなぜ万引がやめられないのか?』
河村重実
飛鳥新社

「窃盗癖(クレプトマニア)」という言葉は初めて知りました。
アルコール依存症や買い物依存症と同じ「嗜癖(アディクション)」のひとつで、
摂食障害を併発していることも多いとか。
入院治療の必要な精神疾患なので、本人の意志だけではやめることができない。
万引=悪意のある犯罪として裁くだけでは解決しない問題です。

本『農場の少年』

農場の少年―インガルス一家の物語〈5〉 (世界傑作童話シリーズ)

『農場の少年』
ローラ・インガルス・ワイルダー
福音館書店

<読書メモ>

「この音が英軍の赤服(レッド・コーツ)どもを追っぱらったんだ!」
パドックさんが父さんにいった。
「たぶんな」父さんはあごひげを引っぱりながらいう。
「だが、独立戦争を勝ちとったのは、歩兵隊の小銃だよ。
それに、この国を造ったのは斧と鋤だということをわすれちゃいけない」

「父さん、斧と鋤がこの国を造ったって、どういうこと?
イギリスと戦ったのは国を造るためだったんじゃないの?」
「われわれは独立をもとめて戦ったんだよ。だが、われわれの祖先は
一六二〇年にここへ上陸してからあと、ほんのわずかな土地しかもっていなかったんだ。
大洋と山との間のここらだけしかね。ここから西は全部インディアンの国であり、
スペイン、フランス、そしてイギリスの領地だった。
その土地をみんな手に入れ、アメリカという国にしたのはすべて農夫たちの力なんだよ」

だが、われわれアメリカ人は農夫だったんだ。ほしいのは土地だったんだよ。
山を越え、荒れ地をひらき、耕して作物をつくり、
その農地に腰をすえたのは農夫なんだ。

いまでは、この国は西へ三千マイルもひろがっている。
カンザスのずっと先、大アメリカ砂漠の向こう、
ここらの山よりまだ大きな山々を越えて太平洋岸までつづいているんだ。
世界じゅうで一番大きな国、それを全部手にいれてアメリカにしたのは農夫たちなんだよ、
アルマンゾ。このことは絶対にわすれないようにな」

本『絵本を抱えて 部屋のすみへ』

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

『絵本を抱えて 部屋のすみへ』
江國香織
新潮文庫

<読書メモ>

無論こういうのはきわめて個人的なことだ。
でも、読書というのはもともとおそろしく個人的な行為であり、
だからこそ隠微な愉しみなのだと思う。

これはたとえばミルンの『クマのプーさん』などにもいえることだけれど、
彼らはみんな一人で住んでいる。監督者不在の物語空間なのだ。
みんな自分の考えと感覚と、わずかばかりの経験と創意工夫とで、
それぞれの人生を豊かに渡りあるいていく。

彼らがみんな一人ぼっちで生きている、というそのことが、
物語をたしかなものにしていると思う。

コメントの欄に、「人生が幸福なものに思えるから」と書き、
書いた途端に気がついた。それが子供の本の基本なのだ。

幸福といっても、たとえば『シンデレラ』のような、
「幸福な結末」のことではない。プロセスの話だ。
ザルテンの『バンビ』にこういう一文がある。
「バンビは穴から出ました。生きることは美しいことでした」


本『素粒子』

素粒子 (ちくま文庫)
ミシェル ウエルベック
筑摩書房 ( 2006-01 )
ISBN: 9784480421777


『素粒子』

著 ミシェル・ウェルベック
訳 野崎歓
ちくま文庫

今年最初の1冊。
というか今年最初に読了した本。
約400ページあって、最初の100ページは1日で読めたのですが、
主人公たちが中年になってグダグダしている200ページくらいはなかなか進まず、
後半は年末年始ということもあって一気に読みましたが、ここが結構、重かった。

どういう話なのか説明するのはとても難しいのですが、
本文の文章がうまくあてはまる気がしたので、引用しておきます。

「同じころ、カフカの小説を読み始めた。
最初は寒々しさ、冷気が忍び寄るような感じを覚えた。
『審判』を読み終えたときは、痺れたような、ぐったりした感覚が数時間も続いた。
たちまちのうちに彼は、このスローモーションの世界、恥辱にまみれ、
人と人が途轍もない空虚の中ですれ違い、
互いのあいだにいかなる関係も結び得るとは思えない世界が、
まさしく自分の精神世界そのものであることに気がついた。
それは緩慢で、冷え冷えとした世界だった。
ただし一つだけ熱いものが、女たちの脚のあいだにあった。
だがそれは彼には手の届かないものだった。」
(85ページ)

「イギリス人は冷静沈着で、人生の出来事を――たとえどれほど悲劇的な
ことであれ――ユーモアとともに受け止めるやり方を心得ているとよく言われます。
かなり当たっています。それがイギリス人の本当に馬鹿なところなんです。
ユーモアは救いにならない。
結局のところユーモアなどほとんど何の役にも立たないものなんです。
何年間か、あるいはもっと長いあいだ人生上の出来事をユーモアとともに受け止め、
場合によってはほとんど最後までユーモアに富んだ態度を貫くこともできるでしょう。
とはいえ最後には、人生は人の心を打ち砕かずにはいない。
一生を通してどんな勇気や冷静さやユーモアを養ってきたとしても、
必ず最後には心を打ち砕かれる。そうなればもう笑うこともなくなります。
要するにあとに残るのは孤独、寒さ、沈黙のみ。
要するにあとは死ぬしかない。」
(396ページ)

本『ミラノ 霧の風景』

『ミラノ 霧の風景』
著 須賀敦子
白水uブックス

須賀敦子は『コルシア書店の仲間たち』、『トリエステの坂道』、
それからこの『ミラノ 霧の風景』と発表順不同に読んできているのですが、
どれもイタリア時代の彼女をめぐる人々の断片なので、
『コルシア書店』にも当然でてきた同僚のガッティやアントニオ、ルチアの話や
『トリエステの坂道』で詳しく書かれている夫の家族の住んでいた鉄道官舎など、
あっちの本ではさらっと書かれていることがこちらには詳しく書かれていたり、
逆にこっちの本では背景まで説明していなかったことが、
別の本では主になっていたりして、全体を通して読むと、
コルシア書店と彼女の夫ペッピーノ家の一大叙事詩みたいになる。

須賀敦子の魅力というのは第一に、文章が読んでいて気持ちがいいということなのだが、
書かれている内容は、路地裏の小さな道から始まる回想から、
その街で生まれた詩人のエピソードになり、その詩人をめぐる友人の話へとつながり、
と流れるように話が飛ぶ。

彼女の語る町の風景が、ミラノにしてもヴェネツィアにしてもナポリにしても
旅人のそれや、観光客ではなく、暮らす人の視点につらぬかれているのも魅力。
彼女が語るとヴェネツィアもきらびやかな都市ではなく、
町の人たちがひっそりと秘密を抱えた古ぼけた町のように見える。

日本人にはほとんど理解できない階層や人種の織り成す社会を
異国人であるがゆえに彼女がかろやかに横断して、
上流社会の人々の暮らしも、貧しい家庭から出てきた青年の物語も
同じ国のそれぞれの側面として同列に描いてみせているのもおもしろい。

『ミラノ 霧の風景』は須賀敦子のデビュー作だが、
日本オリベッティの広報誌に連載されていたもの。
オリベッティ?と思うのだが、そのオリベッティとも
浅からぬ縁で須賀敦子がつながっていることが本書に出てくる。

«本『母なる夜』