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『ウェブ恋愛』

ウェブ恋愛
渋井哲也・著
筑摩書房

“ウェブ恋愛”というと出会い系ばかりがクローズアップされがちだが、
インスタント・メッセンジャーによるチャットから恋が生まれたり、
趣味系サイトに感想メールを送ったことで始まる恋もある。
一方で、自分のブログに恋愛を書き綴る人々や、
メル友という手段で“本当の恋”を探し続ける依存症的な人々もいる。
実体験を取材し、ウェブ恋愛を考察した本。

この本の体験談が示しているように、
ウェブ恋愛といっても、ネットがきっかけになっているだけで、
普通の恋愛と大きく変わることはない。
趣味系サイトのように、共通の話題がベースにあったり、
メールによって相手のイメージが作られていると、
実際に会ったあとで恋に発展しやすい、ということはあるかもしれないし、
恋人募集のメル友の場合、合コンと同じく恋愛が目的で相手を探してるわけだから、
気が合えば交際を始めるのも早い、ということもあるかもしれない。
一方で、実際に本人に会わないうちに
メールやチャットで好きになって、つきあい始めたり、
遠距離恋愛になるケースも多いので、ネットでつながっていれば
まったく会わなくてもいい、という人もいるらしい。

「メッセンジャーやメール、電話でいつでもつながっている。
また、メッセンジャーや電話でエッチな会話をする。
それで性欲まで満たすことができるのなら、
好きな相手が目の前にいる必要は、もはやない。
ウェブ恋愛は、肉体的な接触がなくても成り立つということだ。」

正直、実際に会わないで恋に落ちるという感覚は私にはよくわからない。
そもそも、そんなにみんな誰かと出会って恋に落ちなければいけないものですか?
また、自分の恋愛話をブログにあからさまに書く人の気持ちも私にはよくわからないが、
それについては以下のように説明されている。

「日記の内容はその日に体験した出来事でひき起こされた
自分自身の感情を記述することが多い。
この場合、日記を書くことでその感情体験はいっそう強められる。
楽しい恋愛体験の真直中にいる人が日記をつけると恋心はいっそう高まり、
悲嘆にくれている人が日記を書くと、
少なくとも一時的には悲しみがいっそう増すのである。」

ただ、恋愛体験をウェブ上につづる例として、
『電車男』や『59番目のプロポーズ』があげられているが、
ここらへんを一緒くたに語るのはちょっと無理がある。
著者自身、ウェブ恋愛の体験者らしいが、
ウェブ恋愛自体がめずらしくもなくなった今、それぞれの体験談から
何か結論を引き出すのは難しい。
インターネットで“本当の愛”を見つけることは可能か、という疑問から
この本が始まったのだとすると、そもそも“本当の愛”とは何かという話になる。
後半はスタンダールや三島由紀夫の恋愛論まで引用されているが、
全体的に何が言いたかったのかよくわからない本になってしまっている。

◆読書メモ

人間の恋愛は、動物の恋愛と違って、そういうふうに
心とからだが分裂しているところにできてくるのだろうと思います。
人間には心があるから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。
からだで求めようとしても、心で求められない。
こういう人間独特の分裂状態から、恋愛が生まれてくる。
(三島由紀夫『新恋愛講座』)

押見輝男『自己との対話-日記における自己フォーカスの効果』は、
パソコン通信を含めた日記について「書き手の自己フォーカスを刺激する」としている。
書くという行為によって自己対話する、つまり自分を見つめ直すのだ。
自己フォーカス(人が自分の注意を自分自身の方に強く向けること、
換言すると、自分を対象としてみること、自分を自ら注目すること)
が高まった自覚状態では、往々にして、自分の状態が自ら望ましい、
正しいと考える規準には達していないことが多いため評価はマイナスとなり、
この不快さを弱めるために、人は自己への注意を高める状況から逃げようとするか、
あるいは自己評価がマイナスにならないように
自分の状態を正しいとみなす規準に一致させようと試みるという。

今週の記録

6km 43分37秒97

寒いとか体調が悪いとか自分に言い訳してサボってきたのだが、
いいかげんスケジュール的にやばいので走る。
途中で真理ペースを維持できなくなるが、
とりあえず距離を伸ばしたいので真理ペース以下で続行。
このペースでハーフ2時間33分。3分くらい見逃してくれないものか。

公園のランニングコースをぐるぐる回っているのだが、
毎回驚くのがマナーの悪さ。
コースで犬の散歩をする人がいるのはしかたがないが、
道の真ん中で立ち話をするのはやめてほしい。
グランドではサッカーや野球の練習とか試合が行なわれているのだが、
ちょうどグランド横の道が休憩所のように使われていて、
今日はそこでタバコを吸っている親だかコーチだかがいた。
公園内は禁煙だし、スポーツしている子供の目の前で
タバコを吸うのはいかがなものか。
そして練習が終わるとわらわらと出てくる子供たち。
一度目はコーチらしき人が「道開けて」と声をかけていたが、
二度目はあまりにもじゃまで走れず、
私が走りながら「通してくださーい」と叫ぶ始末。それでもどかないガキども!
私だけの公園じゃないので、えらそうなことも言えないが
走ってる人を優先するのは常識じゃないのか?
まがりなりにもランニングコースなんだし。

そんなつまんないことでイライラしてる中、
サッカー小僧らしき高校生が自転車で帰ろうとする小学生に向かって
「気をつけて帰れよ。またサッカーがやりたくなったらいつでも来いよ」
と声をかけてる姿が微笑ましかった。

『偽ブランド狂騒曲』

偽ブランド狂騒曲―なぜ消費者は嘘を買うのか
『偽ブランド狂騒曲―なぜ消費者は嘘を買うのか』
サラ・マッカートニー・著
ダイヤモンド社

人はなぜブランドを愛するのか、
そしてブランドを愛しているのになぜ偽物を買うのか、を検証した本。
ニューヨークの小売店で簡単に偽ブランド品が手に入ったり、
ネットオークションで本物そっくりのブランド品が売られている現状を
著者自身が実際に体験し、消費者から偽ブランド品を買う心理をアンケート。
すでに本物と区別がつかなくなった偽物の実体をさぐる。

幅広い検証を行なっているのだが、基本的にブランド品を買う消費者側と、
イメージばかりが先行し、本質を見失っているブランド側からの考察なので、
偽物を作って売っている側(犯罪組織の収入源になっているとも言われる)
の実体は見えてこない。
しかし、ラッシュのマーケティングを担当している著者らしく、
ブランドイメージを作る側、ブランド品を買いたいと思ってしまう消費者心理は
かなりよくとらえている。

村上隆がデザインしたヴィトンのマルチカラーは
雑誌で見る分にはかわいいのだが、街で女の子が持っている見たら、
「ヴィトンのパチモンみたいだ」と思ったことがある。
著者がネットオークションで見かけたマルチカラーのバッグは
実際には生産されていない偽造品だった(モノグラムの同タイプはある)。

「コピーや偽造にまつわる話で一番皮肉なのはヴィトンだ。
旅行かばんの生地にLVのイニシャルを織り込むようになったのは、
コピーを防ぐためだったのだ。偽造が横行している今では、
LVのシンボルが世界中に知れ渡っているがゆえに最大の標的になっている。」

「ヴィトンの日本市場は巨大で、一時は同社の売上げの75%を占めていたほどだ。」

「一般人がロゴ入りの服やアクセサリーを身に着けて
うろうろするようになったおかげで、高級ブランドのイメージは下がったのだろうか。
不適切なセレブを宣伝に起用したり、
何万人もの日本人OLにバッグを持たせたりしておくことのほうが、
偽造品によるダメージよりも深刻だという人もいるくらいだ。」

「欧州のヴィトンが日本人観光客向けに一人につきバッグ三個まで
という制限を設けている噂は知られているが、こうしたルールは
手に入りにくいという神話をつくり上げたいがためという気もする。」

「ジャスパー・コンランは、「ものすごいお金持ちでなくとも、
いいものを持つべきだ」と信じている。LVMHならば絶対にそうはいわない。
高級品が真に高級であるためには近寄りがたいものでなければならない。
高級ブランドは需要をつくり出しておきながら、それを満たすのを拒否する。
だから偽造屋たちは嬉々として現れては、満たされない消費者の欲望を
高級ブランドになり代わって満たそうとする。」

偽ブランド品ではないが、デザインを勝手に真似するコピー商品は
ファッション業界では当然のように行なわれているらしい。
『ガイアの夜明け』かなんかで、街を歩いている女の子の服をスケッチし、
それを元に新製品をデザインするメーカーの話をしていた。
このメーカーのやり方は盗用すれすれだと思うが、
雑誌で見たブランド服は高くて買えないから、
同じようなデザインのもっとお手頃価格の服を探すぐらいのことは
みんな普通にやっているだろう。

「一般大衆でも最新のファッションを手にできるのは、
自分たちのようなハイストリート・ショップ(目抜き通りに並ぶお手頃価格のブランド)が
ロビン・フッドよろしく流行のスタイルをしとめてきては、
恵まれない弱者に分け与えているからなのだ。」

「キャットウォーク・カンニングペーパー」雑誌『イヴ』のタイトル
「スタイル・ストーカー」雑誌『B』のタイトル
「ハル・ベリーが主演映画『キャットウーマン』のプレミアで着ていた
マシュー・ウィリアムソンの1000ポンドのドレスは売り切れてしまったが、
ASOSドットコムでなら類似デザインのドレスが35ポンドで買えるそうだ。」

結局、ブランドイメージばかりが先行し、購買欲を掻き立てるマーケティングが
偽ブランド品を拡大させてきたわけだ。

「ブランドの核心部分をなすのは象徴的価値ではなく、
顧客がお金を払って手に入れようとしている製品またはサービスそのものだ。」

「顧客が品質と価値の両方を認めるところに、必ずブランド・ロイヤルティはある。」

検証が幅広く、著者の言いたいことの焦点がわかりにくいが、
そのぶん、小ネタはあちこちおもしろい。

◆読書メモ

製品でもサービスでも、特定の人と結びつけたブランド・イメージづくりは
諸刃の剣になりうる。マドンナはGAPの役に立ったのだろうか。
ジェニファー・ロペスはヴィトンにとってプラスになったのか。
マイケル・ジャクソンとペプシ、ディビッド・ベッカムと携帯はどうだったろう。

「ヴァン・ダッチを買う人たちは品質には関心がありません。
マーケティングに乗せられているだけです。
そのブランドを身に着けることが何かを象徴するわけではありません。
しいていえば、個性のなさを象徴してるとでもいいましょうか」
(ファッション評論家マンディ・ミルズ)

とかくブランドのオーナーというのは、順番待ちリストに登録してでも
そのレーベルの商品を手に入れたいという客がいるからには、
自分たちは安泰だと思いがちだ。けれども、バーバリーが
英国で少々目立ちすぎるようになったとき何が起きたかを思い出してほしい。

ロゴのついていない偽造品を見たことはあるだろうか。
大勢の人々が偽造品を買うのは、偽のロゴに嘘をついてほしいから、
そして真実と思い込みたいからなのだ。

近頃は独立ブランドを立ち上げるのはあまり流行っていない。
ブランド拡張のほうが安全と考えられているからだ。

1998年にニューヨークで摘発・押収された偽ブランド服が、
東欧難民への人道支援対策の一部として提供されたが、
ほどなく難民キャンプへ行ったはずの服が大量にイングランドの露店から押収された。
以来二度と同じことが起こらないよう、
難民キャンプに送られる偽造デザイナー・ブランド製品から
ロゴの刺繍をほどき、ラベルを切り取るようになった。

「あまりにも多くの人が『問題があれば政府がなんとかしてくれる』
と考えてきたのではないでしょうか。そういう時代を生きてきたのです。
『困っているから、給付金をもらおう』『住むところがないから
政府に住まいをあてがってもらおう』という具合に。
要するに自分の問題を社会に押しつけているのです。
 けれども、いいですか、社会などというものは存在しません。
存在するのは個々の男と女、そして家族なのです。
どんな政府も個人を通さない限り何もできません。
それに人はまず自分の面倒は自分で見なければならない。
最初に自分の面倒を見て、それから隣人に目を向ける、それが私たちの義務です。
 ところが、義務をそっちのけで権利のことがばかりを考える人たちがいます。
最初に義務を果たさなければ権利などないのです」
(サッチャー)

1980年には、英国政府も米国政府も機会の平等を促すことを
自分たちの責任とは考えなくなった。チャンスは自分でつかめという時代が来たのだ。
そこで野心的な若者たちは新たな見方をするようになり、
「お金でステータスは買える」と考えた。
平等はもはや望ましいものではない。第一、誰と平等になりたいというのだ。

ヤッピーはものの価値が全然わからないのか。わが祖母の名言をもう一つ。
「ものの値段は知っていても、値打ちは知らない連中だね」。

日本と台湾では、化粧品用に社名の「Lush」のほか、
「Rush」という単語も商標登録した。日本語ではどちらも「ラッシュ」と読めるからだ。
グッチが「Rush」という香水を開発したとき、
ラッシュがグッチに対し、商標「Rush」の使用を許可するということで円満解決した。

オーストラリアでは、ある会社が製品の包装すべてに「フレッシュ」という言葉を使い出し、
ラッシュに対し「フレッシュ」の使用を差し止める禁止命令を取りつけた。
その命令が出たのはクリスマス・イブだった。
マーク・コンスタンティンはついに堪忍袋の緒が切れ、相手を逆提訴、勝利を収めた。
そして和解条件の一つとして、クリスマス休暇をメチャクチャにしたお詫びに
マークの自宅に10本の赤いバラを届けることが加えられた。
この一件は、バブルバー製品「アマンドポンド」が生まれるきっかけにもなった。
表面に本物のバラのつぼみが埋め込まれたこの石鹸には、
和解の申し込みという意味がある。(日本では「ごめんねダーリン」と名付けられた)

ちなみに中国人自身は模造品には興味がない。
彼らが求めているのは本物だから。
欧州のブランド品を最高の値段で買ったことを
人に見えるために、値札を外さないでおくくらいなのだ。

マーク・バイ・マーク・ジェイコブスは、マーク・ジェイコブスと同じではないことや、
通販のラ・ルドゥート向けのキャシャレルは、
キャシャレルとは違うことを知っている人は知っているのだ。

コミュニケーション学の権威エヴァレット・ロジャーズは
1962年の著書『イノベーション普及学』の中で、
ある商品をいずれ必ず買う人をいくつかのカテゴリーに分類している。
最初の2.5% イノベーター(革新的採用者)先陣を切って冒険する人たち。
(最初の0.5% リアル・グラウンドブレーカー(真のパイオニア)とするバージョンもある)
13.5% アーリー・アダプター(初期採用者)
34% アーリー・マジョリティ(初期多数採用者)
34% レイト・マジョリティ(後期多数採用者)
16% ラガード(採用遅滞者)
 ロジャーズの理論が示しているのは、新しい製品やサービス、
新しいファッションが成功を収めるには、イノベーターという先導者が必要だということ、
そして目新しいものにすぐに飛びつく人たちがいる一方、
まずは試してからでなければ手を出す気になれない人たちが
購買人工の少なくとも半数いるということだ。
イノベーター、つまり流行に敏感な人は、
自分が発見したものを仲のよくない人間が取り入れているのに気づくと、
そろそろ乗り換える時期だと本能的に感じ取る。

『セックス・アンド・ザ・シティ』があれほど成功したのは、
視聴者が華麗な四人組に何かしら自分との共通点を見出したからだ。
大勢の女性があのドラマを地で行きたいと思った。
まさにショッピング命というライフスタイルだ。

1990年代になると、現代のことわざ
「もっと残業すればよかったと悔やみながら墓に入った者はいない」が生まれた。

英国では1990年代になって突如ヨガが流行り出した。
プーマはシューズを売り出した。プーマはどこのヨガの先生にでもいいから
一言相談するべきだった。ヨガは裸足でやるものだ。

『日本残酷写真史』

『日本残酷写真史』
下川耿史・著
作品社

江戸時代の“さらし首”から、戦時中に行なわれた斬首、
ナチによって殺されたユダヤ人の死体の山、
最近ではアルグレイブ刑務所における捕虜虐待まで
写真でつづる近代史。

掲載されている写真の多くが初公開というわけではなく、
今までにどこかで発表されているものらしく、
ベトナム人に銃を向けるアメリカ兵、
原爆によって黒こげになった少年の死体など有名な写真も多い。
しかし、阿部定本人や阿部定に殺された吉の死体
(本当に「定吉二人キリ」と書かれている)や、
切腹した三島由紀夫の写真(側に介錯された頭部がころがっている)、
佐川一政によって殺され食べられた女性の死体写真など、初めて見るもの多い。

当然のことながら目をそむけたくなる写真ばかり。
殺人現場の写真や累々と死体が並ぶ戦場の写真など
(報道という意味を抜きにすれば)よくカメラを向ける気になったものだと思う。
しかし、本書は興味本位やエログロ趣味な内容ではなく、
人間の残酷さについて、戦争が与える狂気について考えさせる。

「ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は、
筆者にとって「これまでに読んだ全部の本」の中でも、
もっともショックの大きかった一冊であり、
同書を読んで以来、人間の残酷さ-その残酷さはどんな形で実行されたか、
人間はどこまで残酷になれるのか、残虐行為の対象にされた人々は
その攻撃にどう対処したのか-といったことが心の片隅にずっと残ることになった。」

関東大震災における朝鮮人虐殺や南京大虐殺など微妙な問題にも触れているが、
「本誌の主旨ではない」ということで結論は避けられている。
日本人は(おそらく人間は誰しも)残酷さと無縁ではない。
戦争や国家の名の下、人を殺せと言われたら殺せるだろうか。
人間を残酷さに駆り立てるものは、戦争や国家という大義名分だけだろうか。

写真の本質は“生と死”だと思ってきたけれど、
死体たちが語るのはただ物としての無言だけだ。
それでも『性犯罪の心理』で読んだ阿部定や小平義雄の供述よりも
たった1枚の微笑む阿部定の写真や、増上寺に転がる全裸の死体のほうが
恐ろしいほどの表現力をもっている。
こうした写真を見たいとも思わないし、簡単に公開すべきだとも思わないが、
そこに目をそむけてはいけないものがある気がするのも事実だ。

「では、あの戦争後、事実を事実として「見る」ことのできる時代は到来しただろうか?
戦後の六〇年は戦争こそなかったものの、相次ぐ地震に見舞われたし、災害もあった。
鉄道や飛行機などの大事故の悲惨さも記憶に新しい。
これらにさまざまな猟奇犯罪を加えれば、
われわれの日常生活は、悲惨・残酷の皮膜の間といってもよい。
しかし、われわれはそれらの事件や事故について、
どの程度、事実を「見る」ことができるのだろうか?
むしろ悲惨・残酷な場面を直視することを心理的に拒否したり、
政府の規制やメディアの自主規制によって、
まったくと言っていいほど無知なのではあるまいか。
とすれば、筆者にとって、そういう時代も現実と虚構の逆転であり、
それはそれで、あの戦争の時代に焼き直しにすぎない。」

◆読書メモ

獄門はさらし首のことで、鎌倉時代には斬首した後、
牢獄の門に首を懸けたことから、こう呼ばれるようになったという。

日本でさらし首にされた最後の男は、江藤新平である。
江藤は司法卿(大臣)のころ、日本に手配写真制度を導入したが、
その制度によって手配された第一号が当の本人で、
捕まったのもその写真のせいであった。
自分の作った制度の効用を自ら実証したのである。

(関東大震災における朝鮮人虐殺について)
当時の朝鮮総督符の総監だった斎藤実は「確実なところは二人」と語ったという。
一方、多い方では一万人とした資料もあるが、これまた推定でしかない。
その結果、被害者の数は「二人以上一万人以下」(弁護士・山崎今朝弥の言葉)
ということになり、多くの資料にはその中間を取って
四〇〇〇〇人から六〇〇〇〇人としたものが多い。

この頃(日清・日露戦争から日韓併合、シベリヤ出兵に至るまで)には
斬首シーンが絵ハガキにして売り出されたこともあった。
斬首の場面が連続写真で撮影され、パラパラとめくっていくと
現地人が処刑場に座らされ、首が落ちるまでの場面が
スローモーションのように動いていくのである。
それらの写真が誇示しているのは一等国としての強さである。

戦国時代の『今川大雙紙』という本には、
「討ち取った首が自分より身分が高い人物なら、先ず相手の名を言え」
と書かれている。『軍礼抄』という本には
戦いが終わって勝利の祝宴を行なう時には、
「相手の大将の首にも酒を手向けるのが礼儀だ」と述べられている。
その根底には「明日はわが身」という思いを含めて、
死者に対する敬意が払われているのである。
それが諸行無常ということでもあった。
しかし、大陸の日本軍が行なった斬首には、
死者に対する敬意が根本的に欠落していた。

「マグナム」のメンバーが目指したのは
国家と対峙するものとしての個人のまなざしであり、
国家やイデオロギーに翻弄される個人をカメラで記録するという点にあった。

「なぜ、そのような事件が起こったのか」「今後、どのような余波を生み出すのか」
といったストーリー性や多次元的な分析をもつ写真という、
彼ら(報道写真という言葉を提唱した名取ら「日本工房」)が考えた報道写真は
スタートから彼ら自身によって無視されたのである。

ユダヤ人の虐殺ははじめ銃殺して穴に埋めるという方法がとられたが
二つの理由から廃止され、ガス室で殺害した後、焼却するという方法が採用された。
第一に効率が悪いから、そしてもう一つは
銃殺する兵士の中に精神に異常を来たす者が相次いだからである。

日中戦争以後の軍部の動向を司馬遼太郎は「集団的政治発狂」と言っている。

『ぐちゃぐちゃデスクのシンプル整理術』

24時間ですっきり! ぐちゃぐちゃデスクのシンプル整理術
『24時間ですっきり!ぐちゃぐちゃデスクのシンプル整理術』
ズザンネ・ロート・著
技術評論社

デスクに積み重なった書類を全部出して、不用品は捨てて、必要なものを分類。
7つのステップ、24時間でデスクを整理整頓。
必要なものがすぐ取り出せる効率のよいデスクになれば、
仕事もはかどります、という本。

掃除本はいくつか見たが、
「ひとつ買うごとにひとつ捨てる」とか「ものの置き場所を決める」とか
わかっててできないから困ってるんだ!
しかも最近は「そうじをすれば幸運が訪れる」みたいな本まで売れている。
この本もデスクがもっと広く、キャビネットがあるドイツの例なので、
実用性はあまりない。
ただ、次の文は参考になったのでメモっておく。

「「本日の業務」トレーに嫌な仕事が入っていても先延ばしにしない、
とっても簡単な方法があります。
それは、その仕事の処理に「実際に」必要な時間を紙に書いてみることです。
書いた時間を見たら、思わず笑ってしまうでしょう。
なにしろ、先延ばしにしたい仕事は、実はほとんどが電話を1本かけたり(5分)、
メールを1通書いたり(3分)するだけのことなのです。
先延ばしにする時間の方が、処理時間よりもよっぽど長いのですから。」

ええ、まったくそのとおりです。

『お届けにあがりました!』

お届けにあがりました!
『お届けにあがりました!』
三田村蕗子/著
ポプラ社

宅配ピザをはじめ、牛乳、寿司、水、スイーツなどの食品から
花、DVDのオンラインレンタル、ペットの葬儀サービス、
家事代行、ホームクリーニング、体育専門の家庭教師まで
デリバリービジネスを紹介。

デリバリーというとアマゾンや楽天のお取り寄せなど
ネットの宅配は今ではおなじみのサービスだ。
その一方で、昔ながらの蕎麦や寿司の出前は減少しているという。

「1989年に5500店あった東京都の寿司店は、いまその3分の1。
約47パーセントが従業員2人以下の零細店なので、
出前を受ける余裕などない。」というのが実状らしい。
「特に、ここ3、4年で店をたたむところが増えました。
15年くらい前までは、廃業すると言うとうらやましがられたもんですよ。
『小金が貯まったからそろそろ辞め時かな』という店が多かったからね。
しかし、いまは違う。『もう経営が成り立たない』『これ以上続けるのは無理』
という理由で辞める店がほとんどです。」(東京都鮨商生活衛生同業組合)

数々のデリバリーサービスから見えてくるのは
日本経済と生活スタイルの変化。
「おかもちのピークは1970年頃。好景気で残業をする会社が増え、
おかもちの需要が拡大しました。当時は月に100個以上は売れましたが、
いまはその5分の1程度ですね」(須山製作所)
昔のテレビドラマによく出てくる「ちわ、出前です」とラーメンや丼を運ぶ
おかもちの姿は、いつの間にか遠い光景になった。

花大のフラワーギフトの構成は現在法人4割、個人6割だが、
バブル期には法人需要が7割を占めていたそうだ。
「会社の経費を使って、営業課長や部長あたりが飲み屋の女性に
花を贈るケースが本当に多かった。」
バブルの頃は、せっかく花を配達しても「その辺に置いておいて」
とそっけなく言われることが多かった。
「あの頃景気は確かに良かったけれど、やりがいという点ではいまのほうが上。
心を込めた贈り物が増えたからね。配達していてずっと気持ちが良いですよ」

ちょっといいなと思ったのはウォッシュ&フォールドのサービス。
専用バックに衣類を詰め込み、受け取りスタッフに渡すと、
洗濯からたたみまでやってくれる。バック1つで2400円。
私が洗濯でめんどうだと思うのは、「干すこと」と「たたむこと」。
干すは洗濯乾燥機にすれば楽になるかもしれないが、
たたんで、しまう、がなかなかできず、
干してあった服をハンガーから直接取ることは多い。
洗濯くらい自分でやれよという意見は当然だが、
「週末がお掃除だけで終わってしまうのはイヤ」
という気持ちもすごくわかるのだ。
実際、洗濯や掃除のデリバリーサービスを利用するのは
共働きや独身女性に多いのだとか。

各章とも取材方法や構成が似ているので「連載かな」と思ったが、
ネットの連載をまとめたものらしい。
サービス紹介は幅広く、取材もていねいだが、
章ごとのサービスに対する分析が甘いのが残念なところ。
しかし、移り変わりゆくデリバリーサービスの今が見えておもしろい。

◆読書メモ

好みの具をトッピングするアメリカに対し、ピザに馴染みがない日本人には
トッピングといわれてもピンと来ない。そのため、あらかじめ具をトッピングした
ミックスピザを充実させ、「ツナスペシャル」という独自メニューも用意した。
本家アメリカでは、ミックスピザは10種類程度しかないが、日本では約30種類。
「カニマヨ」などアメリカやイタリアでは「ありえない」ピザメニューも多い。

入館方法が複雑なビルがやたらと増えているのだ。
バイク便のライダーたちの間で「鬼門」と呼ばれ、
忌み嫌われているのが、あの六本木ヒルズ。

1960年に道路交通法が改正され、自転車やバイクの片手ハンドル運転が禁止されると、
自転車の荷台や原付バイクに設置できる出前機が考案される。
ゴムのクッションがショックアブソーバーとして働き、常に水平を保つ、
日本の発明史上に残る画期的な道具である。

新聞配達には中国人が多い。漢字文化圏なので、
表札やポストに出ている名字を判別できるからだ。
「漢字だったら全然問題ないです。多少の文字の違いはすぐ慣れました。
困るのはローマ字やひらがなの表札ですね。あれは辞めてほしい(笑)」

フラワーギフトの一番人気は胡蝶蘭。
「30~40年ほど前から少しずつ注文が増えてきて、いまでは圧倒的な強さです。
持ちの良さと見栄えが受けているんでしょう。
胡蝶蘭は初日に贈れば千秋楽まで間違いなく保つ。」

チャングム最終回

宮廷女官チャングムの誓い DVD-BOX I
『宮廷女官チャングムの誓い』

『チャングム』最終回でしたねー。
(実は先週の第53話を寝過ごして見逃してしまったため、
BSの一挙放映を録ったビデオを取り出してきて鑑賞。
「あと1話だから最後まで見よう」という妹の言葉に負けて
先週、最終回まで見ちゃったたんですけどね。
それでも今日も見た。)

復讐を果たした第48話が実質的に最終回なので、
あとの大長今編はおまけみたいなもんですが、
あのラストは何なんだ。
終わった瞬間「えーーーーっ」と絶叫しちゃったよ。
全54話を見続けてきてこれか……。
(韓国オリジナル版はもっと長く、NHKで放映されているのは
あちこちカットされているらしく、最終回のエンディングは2分ほど短い。
オリジナルでは、あのラストの後、これまでのハイライトシーンが入り、
家族が海辺を歩いている場面に「応援ありがとうございました」の文字が入る。
ドラマ自体も全70話を予定して、大長今編はもっと長かったが、
スケジュールと体力的にイ・ヨンエが無理だったとか。)
最終回で良かったのはチャンイが出世してやっとサングンになっていたこと。
髪型で役職がわかるとこういうとき便利ね。

ラストはいまひとつだったけど、これまで楽しませてくれた
チャングムを振り返ってみる。

●好きだった人ベスト10(順不同)

・チョン最高尚官
前半で一番存在感のあったチェゴサングンばあちゃん。
死に様もかっこよかったです。

・チェ女官長
この人がいなければここまで盛り上がらなかった。
最高に魅力的な悪役。
チャングム豆辞典で聞いた実際の声はむしろかわいい声なのだが、
吹き替え(宮寺智子)も抜群に良かった。

・クミョン
前半のプライドと宿命に悩む姿は好きだった。
料理の天才少女と言われながら、いつもおいしいところを
チャングムに取られてしまう、まるで姫川亜弓のようなライバル。
ジョンホ様なんかにほれて後半つまらない女になってしまうが残念。

・ヨンセン
「どうしたらいいのチャングム」といつもうるさい娘だと思っていたのだが、
チョン・サングンが亡くなるあたりから泣き女としての本領を発揮。
チョン・サングンとの親子のような関係はもっと描いておくべきだったと思うが
(きっと後付けなんだろう)、チョン・サングンの葬式や、
彼女に向かって祈りを捧げる姿は泣けた。

・ヨリ
なんといっても顔が好きだった。
美人で悪女なんて最高。
彼女の生い立ちと遺書騒動は後半最大の大逆転。

・シンビ
彼女も顔が好きだった。
デビューしたころの吹石一恵っぽい?
ヨンセンと立ち位置がかぶり、期待したほど活躍しないのが残念。

・チャンドク
吹き替えが富永みーなと知ってびっくり。
医術ひとつで生きていく姿がかっこよかったのだが、
彼女ももっと活躍してほしかった。
チャングムもチャンドクもいなくなって済州島の医療は大丈夫なのか。

・皇后
大長今編でキーパーソンだった皇后様。
韓国では“悪女”として有名らしい。
中宗王亡き後、息子(皇后が毒殺しろといった東宮)が王位につくが、
9ヵ月で病死、朝鮮王朝でも一番在位が短い王だった。
で、皇后の息子キョンウオンが王位に継ぐが、まだ幼かったため、
皇后と叔父が政治の実権を握り続けた。
といった話を同じくチャングラーのNさんと話していて知ったのですが、
それがわかっていると最終回の皇后の笑顔が恐い。
「前王が早くに亡くなられたのでなんの障害もなくなった。
私が身分を回復します」とさらっと言うもんなー。
2ちゃんで“美和ループ”(皇后が吉田美和に似てるから。そうか?)
と呼ばれた「信じている」→「信じていたのに」→「許しておくれ」
は大長今編をおおいに盛り上げてくれました。

・シン・イクビル
顔はそれほどでもないが声がかっこよかった。
つまらないプライドで悩んだりするあたりがいまいちだが、
チャングムはジョンホ様なんかより
イクビル様やウンベク様を選んだほうが良かったのでは。

・内侍府の長官
最初から最後までいい人だった。
最終話の最後に宮中にいなかったが引退したのか?
ちなみに長官の部下(最終話に出てきた人と
チェ一族に脅されていた人)もいい面構えで結構好きだった。
サスペンスドラマとか似合いそうな顔だった。

あれ?チャングムは?ハン・サングン様は?って結果ですが、
チャングムは主人公ながら一番つまんない役だったと思うわけで
もともとイ・ヨンエファンの私としてはもの足りないのです。
ジョンホ様とのラブラブモードが盛り上がる大長今編は
勝手にしてくれって感じだったし。

あー、チャングムが終わってしまって毎週の楽しみがひとつ減った。
(2ちゃんに「フラれたのに顔だけでも見たいと思っている
未練タラタラの男みたいな気分だ」と書いてあって笑った。)

『NHKにようこそ!』

NHKにようこそ!
『NHKにようこそ!』
滝本竜彦/著
角川書店

NHKとは日本放送協会のことではなく、日本ひきこもり協会のこと。
大学を中退し、4年間ひきこもっている青年が、
自分がひきこもりなのは悪の組織NHKのせいだと妄想する青春小説。

『ローゼンメイデン』、菜摘ひかるの次が『NHKにようこそ!』だなんて、
だんだんドロップアウトしてるような気がしますが、
このセレクトは私の趣味というより大人の事情なのでご心配なく。

著者の滝本竜彦氏は『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』でデビュー、
ひきこもり代表みたいに言われてる人だけど、前に雑誌の対談で見た写真では、
ずいぶん綺麗な女の子みたいな顔をした人だなという印象がある。
『NHKにようこそ!』は原作以上にコミック版の人気が高いらしく、
『涼宮ハルヒの憂鬱』の後番組としてアニメ化されて現在放映中。

本書も実際にひきこもり体験がないと書けないような痛い内容が盛りだくさん。
ブラック・ユーモアとして笑いとばすにはあまりに痛い。
前半は痛くて、ドラッグに走る後半は辛い。
そのため軽い小説なのに読むのにまる一日かかってしまった。
ひきこもるというのは外の世界から逃げて、
安心できる家の中にとどまっていることだと思っていたけど、
本書を読む限り、外に出て行けないことをひきこもっている本人が
一番苦痛に感じているのだ。

ひきこもり青年が不思議な美少女と出会って、一歩を踏み出す
というストーリーは予定調和だが、季節の移り変わりの風景描写とか
ぐるぐる回る思考とか、ところどころに確かな文才が感じられる。
ひきこもったことはなくとも、未来が見えない不安とか、
モラトリアムな青春を送った経験なら誰にでもあるはず。
それがきちんと小説の形に昇華されていてうまい。

◆読書メモ

エロゲーの別名は『美少女ゲーム』である。
美女ゲームではなく、美少女ゲーム。
……そのあたりに、何か深い病巣が隠れているようではある。

「あたしたちは何も悪くないのに、ずいぶんとむやみにいろいろ辛いことが
身のまわりに起こる。それはなぜかというと、巨大な組織があたしたちに
悪い陰謀をしかけているからで」

「人間の一生って、苦しいことと楽しいことの割合は、きっと九対一ぐらいなんです。」
「わざとこんなに辛い世の中を作った神様は、きっとすごい意地悪なヤツなんです。」
「そんな悪い神様がいるんなら、逆にあたしたちは健やかに生きていけるよ。
神様に不幸の責任を押しつけられれば、逆にその分あたしたちは
すっかり安心できるでしょ?」

悪い組織と戦いたい。もしも戦争などが勃発したならば、
俺たちは速攻で自衛隊などに入り、神風特攻していただろう。
きっとそれは、意味のある生き様で、格好いい死に様である。
もしもこの世に悪者がいてくれたのならば、俺たちは戦った。
拳を振り上げて戦った。そうに違いない。
しかし悪者はどこにもいない。世の中はいろいろと複雑で、
目に見えるような悪者など、存在しない。それが辛く、そして苦しい。

『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』

風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険
『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』
菜摘ひかる/著
光文社

高校三年生のときに家を出て年上の女性と同棲し、
彼女の恋人である中年の編集者と「やっちゃって」みて
売春で小遣いを稼ぎ、キャバクラ、ヘルス、SMクラブ、
イメクラ、ソープと風俗を渡り歩いた菜摘ひかるの体験記。

今さら菜摘ひかる?って感じだろうが、
私は最近になるまで菜摘ひかるの名前すら知らなかったし、
ましてや数年前に亡くなったことも知らなかった。

菜摘ひかるは1973年生まれだから、コギャルブームより少し前の世代だが、
性を売ることを躊躇しない。むしろ、性を売ってお金を稼ぐことで
自分の存在意義を見出している。
彼女がどんなに仕事が好きで、楽しいと書こうとも、
その文章にはどこか痛々しさがにじむ。
(ネットの感想に「(自分の文章に)酔っちゃってる」
というのがあったけど、それもあると思う。)
彼女が29歳で亡くなったとき自殺説も流れたというが、
生き急いでいるような刹那的な感じがこのデビュー作からも感じられる。

◆読書メモ

「私の偽名の愛称を一生懸命呼びながらひとりで腰を振り勝手に果ててゆく
男たちの姿は、私を世の中の役に立っている気分にさせたのだ。
自分の行為に罪悪感はまるでなかった。
それどころか相手のつまらない話につきあって笑ってあげて、
なにかを買ってくれたがる人には喜んで買ってもらってあげて、
そしてセックスで気持ちよく射精させてあげたら、
当然報酬を受け取る権利を主張するべきだと私は思っていた。」

「私はあの品のないネオンの海と騒音の渦が好きだ。
そこに生息する女たちが好きだ。あそこにいるとひどく落ち着く。
だから私は、ある時間を過ぎるとどこからともなくやってきて、
身体じゅうにまとわりついた夜の匂いを引きずりながら
いつも決まった顔で靖国通りを渡り、区役所通りを奥に進む、
彼らと同じ流れの中にいたかった。
歌舞伎町の空気を構成する一員になりたかった。」

「気がつくと、騒音の中で本名以外で誰かに名前を呼ばれている、
それが自分がいちばん好きな自分の姿だった。」

「私のようなやる気のない女は、男の客相手に媚を売る商売をしてはじめて、
やっとそこそこくらいに相手にしてもらえる。仕事という大義名分のある、
こういうところでだけ私は恥も外聞もなく吹っ切れることができるのだ。
思いきりよく甘え上手の素直で愛嬌のある女になれて、
そしてたとえ嘘でもお世辞でも、みんなにきれいとか可愛いとか言ってもらえるのだ。」

「飲み屋でもどこでもそうだが、股間が膨らんでいるときの男の言うことは
みんなでたらめだ。彼らは気持ちよく射精するためならどんなことだって口にする。
そんなのは百も承知なはずなのに、耳もとで愛してるとか君がいちばんとか言われたら
やはり悪い気はしない。それに言ってもらえたらもらえたぶんだけ
ほんとうにいい女になれるような気もした。」

「自分を一個人ではなくただの性器として扱ってもらうことに
喜びを感じる私は、おかしいのだろうか。」

「ただ女であるというだけでできるものではない。だからこそ
彼らの期待に反しない限り、私は彼らに必要とされている。
そう感じた瞬間、私は心から安堵し満ち足りた気分になれるのだ。
いまはまだ、この仕事から離れることなんかできないと思ってしまうのだ。」

「うっとりと男の髪を梳き瞼を閉じたら、一瞬この男に愛されているような、
そんな馬鹿げた錯覚さえ感じた。」

「自己満足と言われてもいい。私は自分自身に手間をかけるのが好きだ。
かける金額の問題ではなく、それができない女は、
女を保つ余裕がないように私には思える。」

「「奈々ちゃんは会社の女の子よりずっと純粋な感じがする」
と言ってくれる客がいたが、当然のことだ。金をもらっているのだから。」

『ローゼンメイデン』

ローゼンメイデン 1
『ローゼンメイデン』

『人造美女は可能か?』で取り上げられていて興味を持ったので見てみました。
『ハルヒ』のときのように全話を2日で見るというようなバカはせず、
1ヵ月くらいかけて全12話をコツコツとクリア。

アンティークドールが戦うという設定やゴスロリ的な人形たちなど、
いかにもオタク受けしそうなアニメですが、実際ものすごく人気があるらしい。
(麻生太郎が党首選挙のときに「日本にはすばらしいアニメの文化がある」
と語っていて、本当にわかってるのかと思ったけど、
彼は『ローゼンメイデン』好きとして有名だとか。
『エヴァ』とかジブリじゃなくて『ローゼンメイデン』というセレクトが通ですね。)

人気があるだけあって、アニメ作品としての完成度は高い。
ゴシック的世界観や美術もさることながら、
引きこもり少年が人形との交流を通じて世界へ一歩踏み出す
というストーリーがおもしろい。
原作はまだ連載中で、続編もあるようなので、そちらも見てみたい。

ジェニーやリカ好きだけに私も人形の美しさは認めるけど、
実際のアンティークドールやビスクドールは綺麗という以前に恐い。
そこらへんが少女マンガ的絵柄のアニメなので人形たちはかなりかわいいし、
ゴシックロリータなファッションが女性受けするというのも納得。
それでいて正統ゴシックの流れをちゃんとくんでいたり、
“呪い人形”的な恐さも残されている。

主人公ジュンが引きこもり少年で、真紅はクールな美少女、
雛苺が甘えん坊でわがままなど、一見かなり類型的なキャラクターなんだけど、
それぞれの心理が細部まで描かれているところも良い。
たとえば、ジュンの姉のりはドジなメガネっ娘キャラだが、
自分の高校生活を犠牲にして引きこもりの弟につくしている。
弟を心配するあまり、その優しさが弟の負担にもなり、
弟が引きこもることのできる安全な場所を作ってしまっているといった感じ。
舞台の中心はジュンの家だし、登場人物もジュンとのり、人形5体がほとんど。
(水銀燈がひとりで悪役を引き受けちゃってるのもすごい。)
狭い世界の小さな物語をここまでひっぱていけるのは、この心理描写があるから。
(『ローゼンメイデン』自体、ひとりの引きこもり少年の成長物語だから、
狭い世界なのは当たり前なのだが。)

ただし、主題歌だけはいただけない。
よく言えばマニアック、悪く言えば素人のライブみたいな歌じゃなくてもいいのに。
この手の歌が受ける層というのは確かに存在しますが、
『ローゼンメイデン』の完成度からすると、安っぽい気がする。

以下、印象に残った回を。

第1話『薔薇乙女』
ローザミスティカとかミーディアムとかアリスゲームとか
何の説明もなく、いきなり物語が始まる。
(全編を通しても詳しい説明はほとんどなし。
それでもこの世界観を受け入れちゃうと話が理解できてしまう。)
そもそもこの人形たちがなぜ動いてしゃべるのかという説明もなし。
サイズ的にはちびっこの人形が人間に向かって
「いい子ね、ジュン」と言うあたりに耽美文学っぽさがあります。

第7話『夢』
第2話から第5話までは登場人物(人形)は毎回増えるものの
話はいっこうに進まず、ちょっと飽きてきたところ、
第6話でやっとアリスゲーム(人形同士の戦い)が開始。
真紅のために、引きこもり少年ジュンが学校に向かうという話が良い。
(というか、ジュンが行動を起こすためだけに1話使ってるとこが
この物語の肝心なところ。)

第10話『別離』
「あなたはもう少し誰かのために働くべきよ」
と引きこもり少年が人形に諭されたり、
のりの優しさがジュンを過保護にしているのだと
茶飲み話として語られたり、この回は真紅の名台詞多し。
「カップを温めるのは相手を思いやってのこと。
でも、それが正しいときも正しくないときもあるのね。
わかってみればきっとほんの少しのことだわ」

「だって生きることは戦うことでしょ」


今週の記録

5km 35分7秒

再び、真理ペース(ハーフ2時間半、400m2分48秒)に挑戦。
目標の6kmは走れなかったものの、5kmはなんとか真理ペースを維持。
計算上はこのペースでハーフ2時間28分。
でもこの4倍も走れるのか?

『性犯罪の心理』

性犯罪の心理
『性犯罪の心理 あなたは性犯罪の実態をどこまで知っているのか?』
作田明・著
河出書房新社

痴漢、のぞきなど軽い(!)ものから、小児性愛、強姦、ストーカーまで
性犯罪の実体について心理的側面から考察した本。

女性なら誰でも性的な犯罪について恐怖心を持っていると思う。
たとえば、通りすがりに胸を触られる程度の(!)痴漢だとしても、
相手にとっては女性であれば誰でもいいわけで、
(もっと言っちゃえばプッシーであれば人間じゃなくてもいいのではとすら思う)
被害自体は対したことがなくても(!)、
自分の全人格を否定されたようなひどく嫌な気分になる。
これが強姦であればなおさらで、女性ならその痛みを理解できるはずだ。

しかしながら、世間は性犯罪に対してワイドショー的に騒ぐくせに、
その実体は(被害者に対する配慮もあるのだろうが)まったくはっきりしない。
「わいせつな行為」って何だよ、いったい。
また、逆に具体的に事件が説明されるときは
報道の体裁をとっていてもそこには絶対に興味本位な視点がある。

著者は「性犯罪を実行する人々を理解する作業がなければ、
犯罪者の矯正・更正を含め犯罪の予防や再犯防止についての計画も立てられない」
とし、性犯罪について真摯に考えたいと本書の目的を語っているが、
残念ながら、内容はずいぶん中途半端な印象だ。
実際の事件ケースと犯罪者の心理面解説というパターンが多いのだが、
阿部定や大久保清事件となると、なんとなく「昭和異常事件簿」みたいになってしまう。
かといって、最近起きた具体的な犯罪となると、どうしてもワイドショー的。
犯人や被害者の名前は変えてあるものの、ストーカー犯罪の例は
沼津の女子高生ストーカー殺人だと容易にわかるので、
それまでの犯罪暦やストーカーにいたるまでの交際の過程などは読んでいて辛い。
心理面の分析においても「彼の精神状態は、
パーソナリティ障害に解離性障害が加わったものである」って言われても。
ストーカー犯罪の対策について、
「いちばん大切なことは早くから相手の性格を見抜き、
危険な行為に走りそうになる人とは極力接触を避けることではないだろうか」
ってのはどうなんですか。

性犯罪について研究も対策もまったく不十分なんだなーということが
著者の文章からもうかがえて不安になる。
それでも、著者がまじめに本書を記したことは理解できるので、
今後の展望に期待したい。

◆読書メモ

「最大の問題は、強姦とは、ほとんどの場合、顔見知りの男性が平然と犯す、
女性の性的権利に対する侵犯なのである。
強姦とは、性的攻撃というよりは他人の権利の暴力的な侵害なのである。」

「メーガン法に代表される性犯罪前歴者の徹底的な監視と抑圧は、
皮肉なことに性犯罪を減少させるよりはむしろ増加させることにもなりかねない。」

「人々は一方では犯罪が激増しているので厳罰化を望むと叫びながら、
実際には犯罪者は一層少数派に陥っていることを知っていて
彼らを排除しようと躍起になっている。

 私は時々テレビ番組で犯罪についてコメントすることがあるが、
同席しているアナウンサーやコメンテーター、
あるいは番組の裏方であるディレクターの人たちが、
犯罪者は宇宙人のような異人種と考えているという実状を発見して
息がつまるような気持ちにとらわれたことが一度や二度ではなかった。

 私は基本的に人間は誰でも犯罪を犯しうる存在であると考えており、
こうした昭和二〇~三〇年代にはごくふつうの考え方であった思潮が
現代日本ではきれいさっぱりと消滅してしまい、大多数の国民が、一致して、
実際にはあり得ない、無機的・人工的な無犯罪社会を目指そう
としている姿に接して寒々とした思いを抱いているものである。」

『アイコ十六歳』

アイコ十六歳
『アイコ十六歳』

GyaOで配信していたので思わず見てしまいました。

昔、テレビ放映かなんかを見たことがあって、たいした映画じゃないんだけど、
サザンの『NEVER FALL IN LOVE AGAIN』が流れるキャンプファイアーの場面とか
富田靖子が泣きじゃくる場面とか、なんとなく忘れがたいところのある映画だった。
ところが久々に見てみると、ひどい出来だ(笑)。

瑞々しい印象のあった富田靖子も、今見るとちっともかわいくないし、
演技はボロボロ。名古屋弁にしたって台詞回しは何言ってるんだかわからない。
キャンプファイアーの場面は、私の記憶では
松下由樹(当時は松下幸枝)演じるオキョンがみんなの輪に入っていけなくて
遠くから見ている、という場面だったんだが、
キャンプファイアーを一歩離れて見ているのは富田靖子で、
オキョンは松下由樹じゃなくて別の女の子だった。
(松下由樹はもっと元気なリンリンという友人役。)

それでもこの映画が描いている
青春時代に誰もが通り抜けるだろう生と死というテーマは
やっぱりちょっと印象に残る。
中学生や高校生の頃って今よりずっと死が近いところにある。
生と死っていっても深刻なことじゃなく、
「生きるってどういうこと?」、「今飛び降りたら死んじゃうかしら」
みたいな感じだ。大人になった今では死はすごく恐いけど、
あの頃はなんだか身近な存在だった。
このテーマを正面から描いた青春映画はそんなにないと思うけど、
『今夜はトークハード』や『エンパイア・レコード』みたいに
本当に死にたいわけじゃないんだけど、ふらっと手首を切ってみたりする
登場人物っていうのは青春映画にはめずらしくない気もする。
死と対比しないと生が実感できないくらい、
この頃のアイデンティティーというか自分の存在って希薄なのだ。
と、今なら思う。

かといって、この映画が生と死を描けてるかというとそんなことはなく、
むしろ安易に自殺や事故死を描いてるみたいで嫌な感じだ。
自転車を飛ばす冨田靖子も今見るとオヤジ視点のいやらしさがただよう。
(製作総指揮が大林宣彦だから当たり前か。
監督の今関あきよしはこの映画で監督デビューして、
持田真樹やモー娘などのアイドル映画を撮り続けていたが
2004年に児童買春で逮捕された。)

原作の『1980アイコ十六歳』は
高校生だった堀田あけみが文藝賞を受賞して話題になった。
ずいぶん前に読んだきりだが、生と死の問題にしても
アイコと紅子の関係にしても、高校生にしか書けない小説だったと思う。
その後の堀田あけみの小説も何冊か読んだが、
初期のものに『1980アイコ十六歳』を超えるものはなかった。

堀田あけみはこの映画化に際し、弓道指導としてロケに参加し、
そのときの体験を元に『フェアリーガール』という小説を書いている。
(クレジットを確認したら確かに弓道指導に「堀田朱美」の名前があった。)
『フェアリーガール』によると、ロケ現場で、若い女の子たちは
スタッフやキャストにつかの間の恋をして騒ぐ。
主人公である弓道指導の大学生は、
同じく弓道を指導するスタッフに微妙な恋心を抱くが、
女の子のひとりが彼を想っていることを知り、自分の想いを口には出さない。
その後、女の子の一人は「テレビで見ない日はないくらいの」スターになるが、
彼女の恋敵であった女の子は、彼との平凡な幸せをつかむ。そんな話だ。
実際、富田靖子と松下由樹以外の女の子たちは
この映画以外ほとんどクレジットされていない。
『フェアリーガール』を読むかぎり、
そこには「ひと夏の青春」があったはずなのだが、
映画としてそれを焼きつけられなかったのは残念だ。

『ダメなものは、タメになる』

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている
『ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている』
スティーブン・ジョンソン・著
山形浩生、守岡桜・訳、乙部一郎・監修
翔泳社

ゲームやインターネット、映画の暴力シーンが少年犯罪を助長し、
子供たちの健全な成長を妨げている、とは前から言われていることだけど、
そんなことはない、これらの「ポピュラー文化」はむしろ人間の能力を伸ばしている、
と主張する本。

たとえば、ゲームは一般に思われている以上に難しく、
状況判断や探査能力を駆使しないとクリアできない。
現在のドラマは昔のものに比べて、複数のストーリーが同時並行に展開し、
格段に複雑になっている。悪名高いリアリティ番組でさえ、
社会的ネットワークや人々の感情を理解する助けになる、など。

私自身はあまりゲームはしない。
おもしろいことはわかってるけど(そのためにあるんだからね)
何よりも時間を食うからだ。一度はまってしまうと膨大な時間を消費する。
そしてほとんどの場合、何の利益にもならない。
(著者が言うような能力は発達するかもしれないけど)
それでも、ゲームや映画が現実の暴力行為を助長している
という論議にはうんざりだ。悪いのはゲームや映画ではなくて、
そこから暴力しか学びとれないプレイヤーの精神のほうだろう。
著者が言っていることには多少無理もあるのだが、
「ゲームは頭をバカにする」という理論にだって無理はある。
めずらしくちゃんとした反論としておもしろい。

「本書を書いた理由の一つは、アカデミズムの世界に対して、
いつまでも「メディアの暴力は現実の暴力につながるか」
という問題を果てしなく繰り返すのはやめて、
よい影響をもたらす可能性について研究してくれるよう促したかったからだ。」

ケーブルテレビの配信によって、
テレビは1度だけではなく何度もくりかえし見るようになり、
何度見ても退屈しない人気のある番組にするためには
ストーリーはより複雑なものになった。
という話はなるほどと思った。
『24』や『ER』のように日本でもよく知られたドラマはともかく、
『アプレンティス』などはもう少し詳しい説明がほしいところ。
(『ニューズウィーク』で読んだので、どんな番組か知ってるけど、
日本でみんなが知ってるくらい有名な訳じゃないし)
各ゲームについても、注釈はあるものの、
まったく知らないゲームやドラマについて言及されてもよくわからない。
邦題もちょっと苦しいよね。
原題は『Everything Bad is Good for You』
最初『ダメなものはダメになる』ってタイトルかと思った。

◆読書メモ

本書は最終的には、ぼくが自分の部屋の床でやっていたような思考が
マスエンターテインメントの日常的な一部になった話だ。
システム分析、確率理論、パターン認識、そして昔ながらの忍耐力が、
現代のポピュラー文化理解にとって不可欠なツールになったという話でもある。

複雑なシミュレーションのモデル化というぼくの孤独な情熱は、
いまやデジタル時代のエンターテインメント消費者にとって、
ごくあたりまえの行動になっているのだ。

エンターテインメントが人々を向上させるのは、それが健全なメッセージを伝えるときだ、
という想定だ。喫煙を勧めたり、暴力だらけだったりする番組は人々にとって悪いもので、
十代の妊娠や人種差別に反対するような番組は社会にとって有益である、というわけだ。
この道徳劇の基準からすると、過去五十年のポピュラー文化の物語は、
着実な下降線をたどっている。
物語の教訓はますます暗いものになり、アンチヒーローは増殖している。

重要なのは、ゲームをしているときに考えている内容ではなく、あなたの考え方だ。
ジョン・デューイは『経験と教育』でこう述べる
「おそらく教育学上最大の誤りは、
人間はそのとき学習している特定の内容だけ学ぶという考え方だ。
永続的な態度や嗜好の形成という付随的な学習のほうが、
綴り方の授業や地理や歴史の授業よりも、はるかに重要になることがしばしばある。
将来にわたり根本的に人を左右するのは、そうした態度なのだから」

『ゼルダの伝説(風のタクト)』のプレイヤーは花を育てて爆弾を手に入れることを学ぶ。
だが、この体験における付随的学習ははるかに大きな報酬をもたらす:
難解なうえに刻々と変化する状況において調査(プロービング)し、
テレスコーピングする能力だ。
重要なのはプレイヤーの考える内容ではなく、その考え方なのだ。

人がゲームをプレイするときに実際に行なうこと-頭の働かされ方-は、
ミュージックビデオの場合と根本的に違う。
それはカオスに耐えることでも芸術的にとらえることでもなく、
世界の秩序と意味を見つけ、その秩序の構築を助ける決定を下すことだ。

(『ザ・ホワイトハウス』のオープニングシーンでは、
たいていは故意に情報がぼかされている。)
これらのシーンが提示する問題は「最後はどうなるか?」ではない。
問題は「いま何が起こっているか?」だ。

ロラン・バルトの説明によると、現実効果は実生活の雰囲気を醸しだすためにある:
(フロベールの短編「純な心」の)晴雨計は物語において特に役割を持たないし、
何かを象徴するわけでもない。ただ背景的な質感のためにあり、物語上の意味や
象徴的な意味を持たない物体を散りばめた世界の幻影を作り出すために存在している。
『ザ・ホワイトハウス』や『ER』などの番組に増えている技術的なやりとりも、
似たような役割を持つ。

『ER』で外科医たちが「OPCAB」や「伏在静脈」について叫びだしても、
あなたがその意味を知る必要はない。専門用語は、
本物の医師たちを見ているという錯覚を生み出すためだけのものだ。
こういった番組を楽しむためには、
視聴者はその情報を理解しなくていいのだと安心していられなくてはならない。

廊下と手術室を滑り抜ける高速のドリーショットに合わせて口調は速くなり、
セリフはひたすら勢いよく流れていく。登場人物は早口で話しているが、
セリフで本当に注目すべき部分はスピードじゃない。ほとんどの視聴者には
理解できない情報の洪水に観衆をあえて叩きこもうとしているところだ。
番組と視聴者の間にはある種の暗黙の信頼関係が結ばれていて、
ある程度のわからなさは許容することになっている。
この容認が効果を発揮するのだ:
あなたはすぐさまそれぞれのセリフの役割を査定し、
それを「実体」か「質感」の枠にあてはめる必要がある。
視聴者がこの査定をすぐにこなせなかったなら
『ER』は見るに耐えない代物になっただろう。

画面とは単に操作するものではなく、
自分のアイデンティティを投影するものであり、
人生のつれづれを記す場所である。

レイブンのようなテストでの抽象的問題解決重視は、
もともと文化的偏向のないテストを作りたいという意図から生じたものだった。
頭の中で長方形を二百七十度回転させることに
異常な重点を置くような文化集団は存在しなかったからだ。
でも、数年前に、それが一変した。
一日中憑かれたように長方形を、文字通り寝ても覚めても
回転させている集団が出現した。『テトリス』のプレーヤーたちだった。

(30年前のテレビ視聴者は、)ある場面をもう一度見たかったり、
見逃した会話を後から見たりしたくても、ほとんど手だてはなかった。
ネットワークが挑戦や混乱を怖れたのも無理はない。
番組が一回でちゃんと理解されなければ、それっきりだ。二度目はなかった。

2006年1月のダボス会議ではマイクロソフトのビル・ゲイツが
著者の質問に答える形でこの本について触れ、
「良い本なのでより多くの人に読まれるべきだ」と発言している。

日本国内の市場規模で比較すると、
2005年度のゲームソフトの売上高は、
PCや携帯電話向けなども含めると4950億円、これに対し、
劇場での映画興行収入は1982億円、
映像DVDの売上高は3915億円、音楽CDは4787億円である。
少なくてもビジネスの上ではゲームが他のエンターテインメントメディアに
比肩しうる大きさになってきたことは確かである。

米国のオンラインコミュニティの専門家エイミー・ジョー・キムは、
eBay、アマゾンなど成功しているオンラインサービスの多くが、
収集、点数、フィードバック、交換、カスタマイズといった
ゲームに見られる手法を応用していることを述べている。
オンラインサービスは、ゲーム的な体験を提供することで
ユーザを引きつけ、維持しているのである。


長時間露光

まだやってるの?と言われそうですが、
まだやってます長時間露光。
これくらいの暗さだと15秒程度といった予想もなんとなくわかるように。

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F2.5 8秒

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F2.5 8秒

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F2.5 15秒

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F2.5 15秒

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F2.5 8秒

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