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『「エンタメ」の夜明け』

「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!
『「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!』
馬場康夫、ホイチョイ・プロダクションズ/著
講談社

ディズニーランドを東京に誘致した男たちの物語。
ホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫の著作なので、
登場するのは広告業界やプロデューサーたちなのだが、
ディズニーランドにいたるまでに
テレビの黎明期や大阪万博をしかけているだけあって
時代を作るその姿はすこぶるかっこいい。
(というか、かっこいい話しかでてこないんだけど)

ディズニーランド誘致のプレゼンを行なったのは
オリエンタルランドに出向していた堀貞一郎で、
堀は電通プランニングセンター時代、小谷正一の部下だった。
小谷自身はディズニーランド誘致には携わっていないにも関わらず、
本書では小谷正一について、かなりのページを割いている。

小谷エピソードのひとつが、
「パントマイムの第一人者マルセル・マルソーを招いたとき、
マルソー夫人の買い物に部下を同行させ、
「女性が買い物をするとき、ふたつのうちどちらにしようか
迷うときが必ずある。迷って捨てた方を全部記録してこい」と命じ、
帰国の際に、夫人が迷って買わなかった商品をまとめてプレゼントした。
女性が最後まで迷ったというのは、その商品を気に入った証拠である。
中には、あちらを買えばよかったと後悔したものもあったろう。
小谷はそれを全部買って贈ったのだった。」
というもの。

「阪急グループ総帥、小林一三は
「梅田コマ劇場はきみのために造った」という殺し文句で
小谷を引き抜こうとした。」

小林一三については梅田阪急について調べたときから
ちょっと興味があったのですが、
『編集者という病い』にも書かれている『キャンティ』の名前も登場。
「オイストラフ歓迎の宴が、高輪光輪閣(旧高松宮邸。当時は来日VIP用迎賓館。
支配人は後にイタリアレストラン『キャンティ』を興す川添浩史である)で催された。」
「小谷正一と親交が深かった飯倉のイタリア料理店『キャンティ』のオーナー、
川添浩史は、富士グループ館の総合プロデューサーを委託され、
富士銀行頭取の植村攻に、「万博というのは、大変な仕事です。
あなたか私のどちらかが必ず死ぬでしょう」と言い、その言葉通り、
万博開催の2ヵ月前に肝臓癌を悪化させ、世を去った。」

ディズニーランドをめぐる浦安の土地問題については
実際にはもっとドロドロした話があるのだろうが、詳しくは書かれていない。
それよりも、浦安の漁民との交渉にあたった高橋政知の武勇伝がふるっている。
「最初の1ヵ月の酒代が80万円(現在の1000万円)を超え、
オリエンタルランドの社長、川崎千春に伝票の束を持っていくと、
川崎は金額も見ずに大量の領収書にサインを書き込んでいった。
川崎が最初に言った「きみに任せる」といった言葉は本当だった。
意気に感じた高橋は漁民1800人をひとりひとり回って飲み倒し、
半年で漁業権放棄の交渉をまとめあげた。
(高橋政知は後にオリエンタルランドの社長となり、
オープニングセレモニーで開園を宣言している。)」

登場人物が多く、時系列も前後するため、
誰が誰で人物関係がどうなっているかわかりくにいのは欠点。
ただ、これは「誰が」何をしたということよりも、
こんなかっこいい男たちがいたのだという話なので、
それはそれでいいのかもしれない。

内容のおもしろさに比べて、タイトルと表紙の野暮ったさは
いかがなものかと思うのだが、表紙イラストと装丁を担当した和田誠は
ラジオ演出家、和田精の息子で、和田精は小谷に請われて
日本初の民間放送『新日本放送』の開始に尽力している。

「小谷が手がけた最後の大仕事は、東京国際映画祭の
ゼネラル・プロデューサーである。
小谷は、映画祭のシンボル・マークのデザインを、
「まこちゃん」と呼んで終生かわいがった和田誠に依頼している。」

◆読書メモ

毎日新聞で小谷と同期だった井上靖は、彼をモデルに、
『闘牛』、『貧血と花と爆弾』、『黒い蝶』を書いている。

1949年2月 正力松太郎、プロ野球コミッショナーに就任。
当時の日本プロ野球は1リーグで、
読売ジャイアンツ、大阪タイガース、阪急ブレーブス、中日ドラゴンズ、
南海ホークス、東急フライヤーズ、大映スターズ、太陽ロビンスの8球団で構成。
毎日新聞のプロ野球参入をめぐってもめた末、
正力派の毎日オリオンズ、阪急ブレーブス、南海ホークス、東急フライヤーズ、
大映スターズ、近鉄パールス、西鉄クリッパーズ
の7球団で構成されるパシフィック・リーグと、
反正力派の読売ジャイアンツ、大阪タイガース、松竹ロビンス、中日ドラゴンズ、
大洋ホエールズ、国鉄スワローズ、広島カープ、西日本パイレーツ
の8球団で構成されるセントラル・リーグに分裂。
一気に球団数15の2リーグ時代に突入する。

万博全体の事務局をまとめたのは、後に東京都知事になる鈴木俊一だった。
鈴木は、都知事選出馬要請のために万博期間中に大阪を訪れた田中角栄に
「今、仲間を放り出すわけにはいかない」と要請を断わった。
手塚治虫は、フジパンロボット館をプロデュースした。
太陽の塔をデザインした岡本太郎は、基幹施設の設計担当の丹下健三と
取っ組み合いの喧嘩をした。
磯崎新は、お祭り広場で人気を呼んだロボット『デメくん』を作った。
横尾忠則は、繊維館のデザインを依頼され、パビリオンをわざと
建設途中の姿のまま放置するというアイディアで一躍名を馳せた。
メイン・ステージのショウは、
クラシック関係は朝日新聞の村山龍平会長の孫娘・村山未知、
ポピュラー関係は、渡辺プロダクションの渡辺美佐がプロデュースを任された。
美佐の下でライツ・ビジネスを学んだ服部庸一は電通に戻り、
後にロサンゼルス五輪を仕切って、大成功に導く。
万博は日本の広告界がアイディアやクリエイティブにも
きちんと金を払うようになる、ターニング・ポイントとなった。

紙吹雪はふつう紙を三角か四角に切って作るものだが、
ディズニーランドで撒かれる紙吹雪は、断片がすべて円形である。
地面に落ちて重なったときに、もしかしたらミッキーマウスの
シルエットに見えるかもしれないからだ。

今日のテレビジョン放送の技術は、日本の高柳健次郎と
アメリカのファイロー・T・ファーンズワースが、
ほぼ同時期に開発したもの、というのが定説である。
高柳健次郎がテレビジョン受像機に最初に送った画像が
カタカナの「イ」の字だったことはよく知られているが、
ファーンズワースが、自分の受像機に最初に送った画像が、
ディズニーの最初のトーキー・アニメ『蒸気船ウィリー』の中の
ミッキー・マウスだったことは、日本ではあまり知られてはいない。

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