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『ウェブ社会の思想』


『ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか』
鈴木謙介/著
日本放送出版協会

ポストモダン的な書き方が非常に読みづらく、
全体としていったい何を言わんとしてるのか、よくわからなかったのだが、
「近年の情報化は、膨大な個人情報の蓄積を元手に、
私たちが自分で何かを判断する前に、
するべきことの指針を提示してくれるようなシステムを志向している。
そしてそれは、社会の側から見ると、マスメディアから伝えられる情報を、
私たちが社会の中で共有すべき出来事として理解し、
社会共通の問題に対して公共的な判断を下していくような民主主義にとって、
危機的な状況を生むことにもなる」
といったようなことが書かれている。

ある事件が報道されたとき、新聞やテレビの報道よりも、
2ちゃんの感想の方が自分の感覚に近いと思うことは多々あったりする。
じゃあ、ネット世論のほうが民主主義なの?
というと、そう考えることも危険なんじゃないの?
マスコミは間違っていて、ネットが正しいなんて言えるの?
そもそも“共通認識”や“事実”って何?
おおざっぱに解釈すると、そんな話です。

ユビキタス社会によって「システムによって自分に与えられた可能性以外の
未来を選択できなくなる」が、私たちが「この選択肢でよかったんだ」と思うことを
“宿命”と呼んでいる。
著者が本当に書きたかったのは、この宿命のテーマだったと思うのだが、
ほとんどむりやり情報社会から宿命を論じてるので、
私的には「だから何?」みたいな感じも。

ただ、ユビキタスとバーチャルの融合とか、
ネット民主主義なんて成立しないのではとか、
ネット右翼が実在するのではなく、マスメディアに対する反論が
右傾化という形で現われているのではとか、
いろいろおもしろい指摘もたくさんあった。

「ネット公共圏への期待そのものが的はずれだったのではないか。
ネットが人びとに民主主義をもたらすという素朴な期待は、こんにちでは
通用しないものになっている。」という考えには、なるほどと思ったり。

◆読書メモ

コミュニケーションとは何かを伝えることだと一般に理解されているが、
何かが伝達されるときには、自分が相手に伝えようとして伝えるところだけでなく、
意図せず伝わってしまうところが存在する。
何かを伝えるということは、言語だけで行なわれるのではない。
言葉で伝えられるものの外側には、様々な情報が織り込まれており、
そこまで含んだ上で「コミュニケーション」なのだ。

私たちはテキストによって、言語ではなく、
わたしという存在を送受信しているのである。

いわばここでは「顔」文字というものによって、
言語のメッセージが補完されている。
テキスト化されたことによって失われた身体性が、
記号表現として復活しているのだ。
現実のわたしの身体がどのような状態にあるかということとは、
さしあたり関係なく「わたし自身」を表わすものとして、それは用いられるのである。

友人関係を繋ぎ止めるためのツールとして、携帯電話が必要とされていることだろう。
携帯電話で繋がっていなければ、相手を友人として意識し続けることが
困難になっているということであり、また、相手を友人として意識し続けるために、
携帯電話でのコミュニケーション(というより、相手と「繋がり得る」状態を維持すること)
が不可欠の要素になっているということだ。

相対的に閉ざされており、行く場所もさほどない町の中に暮らしていた少女が、
インターネットという手段を通じても、どこにも出て行けなかったことだ。
彼女の日記に綴られているのは、クラスメートとの人間関係、
というよりは率直に友人たちだけに宛てられたメッセージである。
そこには、自分の日記が世界に向けて開かれているという意識は皆無だった。

『マンガ嫌韓流』では、主人公の祖父が語る、実際の戦争体験における
残虐行為よりも、主人公がネットで調べた情報こそが「真実」と見なされている。
その内容の正しさについてはここでは問わない。
むしろここで注目しなければならないのは、
「ネットで真実を見つけた!」と感じてしまう、彼らの心性の方だろう。
インターネットはそこでも、マスメディアには登場しない(登場することができない)
「真実」を語る場所として機能するのである。

ネットの集合性は、ときとして暴走する危険なものであり、
民主制とは相容れないものであるという見方が存在する一方で、
それが政治的な運動の原動力となる可能性を指摘する論者もいる。

かつて言祝がれたネットの民主的な環境が失われたのは、
ネット全体について考える公共的な態度が、ネットの大衆化により、
無責任で粗野な匿名の言説によって駆逐されたからだと言われてきた。
だが稲葉振一郎によれば、現在ではむしろ「2ちゃんねる」のような匿名の場所こそが、
公共的な討議を行う場所として機能し、ブログやSNSのような、ある程度、
人となりの分かる人びとによるコミュニケーションの場所こそが、
私的なおしゃべりで埋め尽くされているという。

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