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『パッチギ!的』

パッチギ!的―世界は映画で変えられる
『パッチギ!的 世界は映画で変えられる』
李鳳宇/著
岩波書店

映画配給会社シネカノンの代表である著者が、これまでの失敗と成功、
映画への想いをつづった一冊。

1989年、大学時代の友人から1000万円を借りてたったひとりでシネカノンを設立。
キエシロフスキの『アマチュア』を買い付けるも、興行的には惨敗。
ジャック・ベッケルの『穴』の成功で、友人に借金を返済。
1993年に『月はどっちに出ている』を初プロデュース。
『風の丘を越えて-西便制』をはじめ、『シュリ』、『JSA』を配給し、
韓国映画ブームを起こす。2005年の『パッチギ!』、
2006年の『フラガール』が大ヒットし、『フラガール』は
独立系映画会社として初めて日本アカデミー賞最優秀作品賞を獲得した。

シネカノンの名前は知っていたし、マニア受けする渋い作品を配給する
というイメージがあったが、(著者によると「シンプルで強い」映画がモットーらしい)
巻末の配給作品のリストを見ると、「お世話になりました!」という感じ。
ジャック・ベッケルの『穴』、『この空は君のもの』、フリッツ・ラングの『飾窓の女』
といった古い作品は公開当時、非常に驚かされた映画だったし、
『月はどっちに出ている』もおもしろかった。
『風の丘を越えて-西便制』は、パンソリという音楽とともに強く印象に残り、
『シュリ』を見るまで、韓国映画といえば『西便制』だった。
『エドワード・ヤンの恋愛時代』、『カップルズ』、『クーリンチェ少年殺人事件』、
キエシロフスキの大作(全10話もある)『デカローグ』、
日本映画『のど自慢』、『ゆれる』もシネカノンの配給作品だ。
(もちろんすべての作品が好きなわけではなく、
『月の瞳』は私にとってトンデモ映画だったし、『フラガール』は期待はずれだった。)

著者は韓国映画関連でなんどかテレビにも登場していたので、
名前から勝手に「韓国系の人かな」と思っていたのだが、
日本で育ち、京都朝鮮高校、朝鮮大学を卒業した在日朝鮮人で、
『パッチギ!』には彼自身の青春時代が色濃く反映されているという。
(『パッチギ!』のアンソンは彼の同級生がモデルだし、
棺桶を通すため玄関を叩き壊す場面は、彼の兄の葬式が元になっている。)

『パッチギ!』がその内容ゆえに、母校の朝鮮高校からロケを断わられ、
テレビスポットから「結婚したら朝鮮人になれる?」という台詞を削除された、
『西便制』の買い付けのため韓国に出張した際は、
在日ゆえパスポートの発行にさえ苦労し、
『シュリ』は東京国際映画祭での上映が直前になって取り消された、
『チキンラン』のポスターに載っているニワトリの四本指を
五本指に差し替えてくれと言われた、
など、映画公開にも、さまざまな問題がからんでいることがわかる。
(9億円の大金で買い付けた『チキンラン』は惨敗。2ヵ月後に公開された
『JSA』が大ヒットしたおかげで負債が取り払われた、という話も劇的だ。)

著者自身は韓流ブームの立役者なのだから、
祖国に対する使命感のようなものがあるのかと思っていたのだが、
以外にも「僕は韓国という国が嫌いだった」と語る。

「僕は韓国という国が嫌いだった。パリ大学で同じクラスになった安という韓国人は
僕が自己紹介をして握手を求めると、次の日にはクラスを代わってしまった。
父が済州島から逃げ出すことになった1948年の四・三事件は島民を7万人も虐殺した。
僕はあの凄惨な光州事件を引き起こす韓国社会が大嫌いだった。(略)
でも眼下に広がる田園の片隅に、僕の両親はかって住んでいた。
両親はそのことを誇らしげに、そして楽しそうに語ったことがある。
僕の両親や先祖はこの地で生まれ、代々この地で生命を継いできた。
韓国や韓国社会は嫌いだが、あの映画を撮った彼らは本当に素晴らしい人たちだ。」

著者が語る韓国や日本への想いは、時に感情的で、戸惑うところもある。
特に「在日」に対する日本人の無関心には怒りを感じているようで、
著者や彼の同級生たちの生活の苦労や受けてきた差別を考えれば
それも当然なのだが、『パッチギ!』において、康介が
「日本人は何も知らない」と責められてたじろぐように、
知らないことに対して責められても、謝罪も反論もしようがない。
(こういう無知自体が罪でもあるわけだが、済州島といって私が思いつくのは
チャングムぐらいで、そこで虐殺事件が起きたことなど本書を読むまで知らなかった。)
それぞれが、そう信じなければ生きていけなかった時代があるだけに、
韓国と日本で共通の歴史認識などできるのかどうか、かなり心もとないが、
まずお互いを知るということが一歩なのであるならば、
韓国映画がはたした役割はとても大きい。
サブタイトルである「世界は映画で変えられる」という意味もそこにあると思う。

◆読書メモ

この映画(シュリ)の製作母体であった三星電子映像事業団は度重なる失敗と
投資の行き過ぎで事業団自体が解散することに決まっており、
解散を決めた矢先の大ヒットで、内部が混乱していた。

「私は、誰かの助監督になど絶対になりたくないと常に話してきたが、
『ケス』を観てからは、もしケン・ローチに誘われたら、喜んでコーヒーを
いれてあげようという気になった。こんな思いを抱いた監督は、
他にオーソン・ウェルズ、フェリーニ、それに時々だがベルイマンがいる」
(クシシュトフ・キエシロフスキ)

ここ数年、9.11以降の世の中は、本当の戦争が見え難くなったように思える。
それはすなわち戦争に異論が言いにくくなったからに違いない。
どの戦争が正義で、どの戦争は間違っていたのか。
議論はどんどんすりかわって、どの国が引き起こした戦争は正しくて、
どこなら駄目なのか。何人殺したらテロリズムで、何人殺したら戦争なのか。
チャップリンが『独裁者』を作った頃は、戦争における悪者が見えやすかった。
勧善懲悪を追求すれば、映画は娯楽としても、そしてメッセージ性のある
映画としても成立できた。でも、東西の対立が消え、地球上でイデオロギーによる
説得が不可能になった時、戦争は違う価値観で動き始めていると思う。

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