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ペリカーノ

伊東屋で買いたかったものがコレ。

いきなり万年筆が欲しくなったのだが、、
文字を書く機会はそれほどないので、
とりあえず入門に手頃な1万円以下のものを探したところ、
子供用万年筆『ペリカーノ ジュニア』が候補に。
『ペリカーノ ジュニア』はグリップに窪みがついていて、
その通りに指を置くと正しい持ち方ができるという“書き方万年筆”みたいなペン。
子供用なので、1500円という価格とオモチャみたいなカラーリングもグー。
『ペリカーノ』は『ペリカーノ ジュニア』よりはやや細身のボディで2100円。
伊東屋の店先でもどっちにしようか散々迷ったのだけど、
ピンクのボディの『ペリカーノ』は伊東屋オリジナルだったので、
限定モノという言葉に負けて、こちらを購入。

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伊東屋オリジナルの『ペリカーノ』。
下は、リニューアル記念のプレゼントとしてついてきた伊東屋のメモ帳。

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キャップにちゃんとペリカンマーク。
創業当時のマークはペリカンのヒナ4匹だったらしいが、
マークが変更になるたびにどんどん減って、今では1匹に。

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グリップ部分に指紋のようなマークがあって、ここに指を置くと正しい持ち方ができる。
『ペリカーノ』はM字。『ペリカーノ ジュニア』はAという専用ペン先。
どちらも中字くらいの太さなので、手帳に細かい字を書くような用途には向いてません。

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こちらが『ペリカーノ ジュニア』。オモチャっぽさがかわいい。

ちびっ子プレイランド

仕事で渋谷へ。
時間が空いてしまったので、お昼でも食べようと思ったのだが、
マークシティはどこも混んでおり、
伊東屋で買いたいものもあったので、東急東横店へ。
東急東横店はあちこち改装中だったり、建て増しの影響もあって、フロアは迷路状態。
南館3階にリニューアルオープンした伊東屋から
西館9階のレストラン街にたどり着くまで、
いくつも角を曲がったり、変な場所にある階段を登ったり。

9階でランチを食べて、帰ろうとすると、
屋上へ続くドアがあり、ちょっと出てみる。
天気が悪かったせいもあるのだが、そのあまりに寂しい風景に逆にときめく。

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南館屋上。

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南館屋上から見た西館。建て増し感が残っている。

私のほかに子供連れのお母さんが2、3人いるだけだったのだが、
学生らしき男の子たちがドヤドヤのぼってきて、うるさくなってきたので避難。
エスカレータで8階に下りると、ここにも屋上へ続くドアがある。
(フロアガイドで確認したら、西館9階からは南館の屋上へ、
西館8階からは東館の屋上へ出られるようになっている。
ちなみに西館の屋上には2001年にオープンしたフットサルコートがある。)

「ちびっ子プレイランド」と看板にはあるのだが、こちらもガラン。
雨のせいなのか、いつもこうなのか、古ぼけた遊具が寂しそうに並んでいる。
私のほかには、タバコを吸いにきたらしい男性や、
屋上が倉庫がわりになっているのか、デパートの作業員らしき人が
ときどき往来するだけ。

屋上の奥には遊具とミニゲームセンターとペットショップ。
昔は流行ってたんだろうけどなーと思ったところで、ふと思い出した。
「私、ここに来たことがある」

子供のころは新宿近くの保育園に通っていたのだが、
たまに保母さんが電車に乗って、デパートの屋上へ連れて行ってくれることがあった。
保育園で行くのだから、当然、1回100円とかする遊具に乗ることはできなかったが、
ウサギやハムスターがいる小動物コーナーがあって、そこで遊んだことを覚えている。
保育園で遊びに行くのはたいてい近所の公園で、
デパートの屋上はめずらしかったので、印象に残っている。
電車を降りてすぐエレベーターに乗った記憶があるから、
どこかの駅ビルの屋上にはまちがいないのだけど、
私はそれをずっと新宿の駅ビルで、京王か小田急だろうと思っていた。
そしてあの屋上遊園地はもうとっくに取り壊されているだろうと。
それが、ここなのである。
もちろんはっきり覚えているわけではないが、遊具の配置や
保育園からの距離も記憶とつじつまがあう。
記憶の中では、そこはいつも子供たちでにぎわっていて、
遊園地らしいプカプカした乗り物の音楽でいっぱいで、
私はいつか保母さんが乗り物に乗せてくれないかなーと期待していた。
たぶんここでまちがいないという確信と、記憶の残像みたいな現在の景色に、
遺跡でも発見したみたいな気分で、しばし呆然。

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わんぱく島。200円払うと遊べるコーナー。象がレトロ感いっぱい。

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わんぱく島の中。

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右奥にペットショップ。記憶ではそこらへんに小動物コーナーがあった。

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ウッドロッキー。「運賃100円玉2ヶお入れください」と書いてあり、
「100円玉2ヶ」の「2ヶ」があきらかに書き直してある。値上がりしたのね。

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ウッドロッキーの線路。

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イスとテーブルがそもそも70年代っぽいが、昔、あったかどうかは覚えてない。

いったいこの屋上遊園地がいつからあったのか、ググってみたのだが、
東急東横店(現在の東館)ができたのが1934年。
1950年~1953年には、トリビアにも出てきたロープウェイが
東急東横店から玉電ビル(現在の西館)までを往復していた。
その後、何度も増築、改装しているらしいので詳細はよくわからない。
東急自体、経営が苦しいはずだし、この屋上もそのうち、
改装されるなり、取り壊されるなりするんでしょうね。

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参照
渋谷文化プロジェクト
デイリーポータルZ
TOKYU NEWS

『フィロソフィア・ロボティカ』

フィロソフィア・ロボティカ ~人間に近づくロボットに近づく人間~
『フィロソフィア・ロボティカ 人間に近づくロボットに近づく人間』
櫻井圭記/著
毎日コミュニケーションズ

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の脚本を担当した
櫻井圭記によるロボット論。AIBO、ASIMO、HRP-2など実在のロボット、
哲学者、数学者、SF小説の文献を参照しながら、
サイエンスとフィクションの狭間、ロボットはどこまで人間に近づけるのかを考察する。

「ロボットを道具としてとらえ、ひたすらにその作業効率を追求するのであれば、
そのロボットが二足歩行型であったり、あるいは会話能力を備えていたり、
自律的に動き回ったりする必然性はないはずであろう。
しかし、技術がそれを可能にした際に、
我々は「アンドロイド」をつくらずにいられるだろうか。
そしてそうしたアンドロイドが登場したときに、それに感情移入をする者を、
我々は笑うことができるだろうか。」

『攻殻S.A.C.』において、著者が脚本を担当した
第3話『ささやかな反乱 ANDROID AND I 』はよく覚えている。
あからさまなゴダールの引用がいかにも映画青年っぽいなと思ったら、
まだ大学生が脚本を書いていて「なるほど」と納得した。
(話はとてもおもしろいんですが、なんつうか映研の作りそうな話だった。
まあ、印象に残ったから著者の名前も覚えていた訳ですが。)

東大出身で、社会学にかぶれまくった著者の文章や広範囲にわたる引用は、
何もこんな言い回しをしなくてもと思うところも多かったり、
“人称代名詞”に対するこだわりはコジツケじゃないのと思ったりもするが、
指摘していることはいろいろおもしろい。

ここでいう著者の“人称代名詞”論とは、
アップル製品に見られるiMac、iBook、iPod、iTunes、
Windows Me、i-mode、i-appliは、I、Meといった「一人称」で、
ケータイやパソコンは「私」を拡張するツールである。
AIBOは「相棒」の言葉遊びで、ロボット技術は「二人称」、
「IT」は「三人称」の技術である。
ゲーム機「Wii」、YouTubeは、一人称複数(We)、二人称を彷彿とさせるが、
これが意味するのは、新しい人称「四人称」なのではないか、という説。

「本来であれば三人称複数の「they」とでもアドレスされるべき匿名の相手をも
「我々」の一員とみなし、「我々」の範疇に取り込もうとする態度が、
その命名には見て取れるのだ。」

「何とでも名づけられたであろうこの電子情報社会の産業インフラを、
「IT」と呼ぶと決めた際に、そこに「それ」という言葉をもじろうという心理が
確かに働いたかもしれないという気はする。
おそらく、Information Technologyという既存の言葉を略すことで、
「IT」という言葉が産まれたわけではない。
逆に、「IT」(=それ)と呼びたいがために、それに合致する単語の組み合わせを
あれこれ考えた際に、その二語の組み合わせに最もふさわしかった候補が
「Information」と「Technology」だった、という順序なのではないか。」

「YouTubeという命名に再度着目してみれば、
それがiTubeではないということの含意は改めて大きいと言わざるを得ない。」

チューリング・テストという言葉は知っていたけど、
(コンピューターと本物の人間と判定員をそれぞれ隔離された部屋に入れて、
判定員の質問に人間と機械が答える。会話を通して、判定員が
人間と機械を区別できなければ、機械は人間と同じ知能をもっているとみなす)
実際にチューリング・テストを行なう国際大会
ロブナー・コンテストがあるとは知らなかった。

人間のようなふりをするロボットの実例、プログラミングされたロボットの動作に
“意志のようなもの”を勝手に読み取ってしまう人間の例、
『超人類へ!』にでてきたサイバー化する人間の例など、
人間に近づくロボットと、ロボットに近づく人間があげられているのだが、
最終的にロボットと人間の差異を『攻殻』の“ゴースト”に求めているところがおもしろい。
話があっちこっち行って、ロボットとは関係のない話も多いが、
「吉野紗香に草薙素子はできない」と思う『攻殻』ファンは読むべし。

「自由にアクセスできる情報ネットワークや、すべてを目に見える形で記述して
保存することができるデータベースが浸透した状態になると、
本人でさえまったくアクセスできず、目にも見えず、記述もできない、
抽象的な概念に、自分という存在の根拠を全面的にゆだねなければならなくなる。
すべてが支配可能となったときに、人は「決して支配し得ないもの」に、
己の準拠点を見いださねばならなくなる。
ゆえに人は支配可能なサイバースペース内において、決して支配し得ない
「ゴースト」を持たずにはいられない。」

「ロボットがどこまで人間に近づけるだろうか。
ロボットに魂(知能)が宿ることがあるのだろうか、というクリシェは、
我々はそもそも魂(知能)を持っているのだろうか、
という問いにダイレクトに跳ね返ってくる。
ちょうど、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』に登場する
ロボットであるタチコマの「ロボットであるボクらにゴーストが宿ることはあるのか」
という問いが、映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の草薙素子の
「人間である私にはそもそもゴーストがあるのか」という問いと、
反転した関係を成していたように。」

付録の『ロボットとフィクションの関わり』年表もなかなかおもしろい。
『ロボット・カミイ』が入っているところが私的にはポイントが高い。
年表作成者のひとり、福富忠和氏は『攻殻』のDVDにおいて、社会学論的な、
『攻殻』と関係あるようなないような解説を書いていた。

◆読書メモ

SFなどにおいて繰り返し描かれてきた「人間VSコンピュータ」という伝統的な図式は、
コンピュータの裏切りに対する我々の裏切るんじゃないかな、という「興味」によって
はじめて可能になるものであることが改めてわかる。
将来、仮に現実問題としてコンピュータが人間に対して
反乱を起こすことがあるとしたら、それは人間の側が、
コンピュータに自分の予測し得ない意外性を求めるあまりに、
どこかで自分を裏切るようにプログラムしてしまうからであろう。

電源を入れたばかりの状態では、AIBOは寝そべったままでいるが、
ユーザーと数日間遊ぶことにより、やがて、四足で立ち上がるようになり、
次第に歩行を開始するようになる。さらに、その歩き方も、はじめのうちは
かなりヨチヨチとした、たどたどしい歩き方でしかないのだが、
ユーザーがAIBOとのふれあいを繰り返すと、やがて足取りはしっかりしてくる。
この四足による歩行は、開発の初期からうまくいったわけではなかったのだという。
しかしそのうちに、技術開発のそれぞれの段階において実現した歩行パターンと、
AIBOの成長という要素をうまく組み合わせられるのではないか、
という発想が生まれた。ゆえに、それ以後は、
印象に残る歩き方のプログラムは捨てないようにして、
開発の途中経過もAIBOの成長段階の途中経過として表現することに成功したという。

興味深いのは、AIBOにおいて再現されている動作や、
成長過程における多くのステップは、実際のイヌにおいては観察されないものである、
という点である。AIBOにおいて再現された成長過程の多くは、子犬ではなくて、
人間の赤ちゃんや子供を参考にしているという。

巌谷國士によれば、当時の人形技師において、
自動人形は不思議なものを作ろうという意志から作られたのではなく、むしろ、
人間というのは機械なのではないかという疑念に基づいていたのだという。

ピクサーも当初は、普通の人間のキャラクターを3DCGで再現しようとしていたのだが、
どうしてもカクカクとしたCGのポリゴン感が残ってしまうことに辟易していたのだという。
どうしてもその技術の壁が突破できなかった製作サイドは、
ならばいっそカクカクと動くおもちゃだという設定のストーリーをつくればいいのでは
ないだろうか、と発想を逆転させたのであった。

「サイバースペース」とは、ウィリアム・ギブソンのSF小説『ニューロマンサー』において
登場し、以後、現実のメディア社会の用語としても転用された経歴を持つ造語である。

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』
電脳という人間の脳がコンピュータ・ネットワークに接続されている、という状況が
日常茶飯事化した時代において、人々は「スタンド・アローン」すなわち、
ネットワークに接続されていない状態をあえて選択するかもしれない。
「コンプレックス」=「複合体」、「固定観念」「強迫観念」
情報ネットワークから離脱することを選択した個々人の群れが、
大きな集団を形成している様子。同時に、情報ネットワークから孤立した人々が、
やはりどうしようもなく孤立していることに焦燥感を覚えている様子。
このタイトルには、スタッフが託した、そうしたダブル・ミーニングの意図を
読み取ることが可能であろう。

百葉箱

今さらだが、夏休みの話。

母が「“ひゃくようそう”の模型が欲しいんだけど、ネットで調べてくれ」という。
「“ひゃくようそう”って何?」と聞いたら、「知らないの?」と驚かれた。
詳しくは各自ググっていただくとして、百葉箱(ひゃくようそう、ひゃくようばこ)とは、
温度を計測するための箱のことで、正確な温度を測るために、
白で塗られており、地上1.2~1.5mの高さに設置するなどの決まりがある。
全国の小学校に設置されていたが、1993年、気象庁は百葉箱による観測を廃止。
老朽化が進むにつれて撤去されているそうだ。(ここらへんとか参照)

会社の人たちに聞いたら、みんな学校にあったし、テストにも出たというのだが、
妹の記憶によると、私たちの母校(私立小学校)にはなかった、
「でも、近所の小学校にはまだあるよ。選挙の投票のとき見た」だそうだ。
まあ、私の小学校では設置もされていなかったし、習ってもいなかったのだろう。
それでもって、私の観察力のなさもあって、今まで知らなかったと。
「今では観測に使われていない」と伝えると、両親のほうが驚いてたけど。

で、隠居所の庭には牛乳パックで作った簡易百葉箱があるのだけど、
これも今まで鳥のエサ箱かなんか程度に思って、気にしてなかったんだよね。
一応、中にセンサーが入っていて、ちゃんと外の温度を測っている。
この中に蜂が巣を作ってしまったので、新しいのが欲しいということらしい。
父によると、「気象庁の科学館で百葉箱の模型を見たことがある」そうなんだが、
それって何年前の話ですか?
本格的な百葉箱を売っているサイトもあるのだが、安くても5万円する。
また、牛乳パックで作ったら?というのが今のところの結論だ。

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牛乳パックで作った簡易百葉箱。風雨にさらされているので、くたびれてます。

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ちゃんと地上から離してある。

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一応、温度も測っている。上が室内、下が外の気温。

そのほか、夏の思い出。

8月13日
前日(8月12日)がペルセウス座流星群のピークだと聞いて、
夜中に空を眺めてみた。
隠居所は田舎なだけあって、星座が判別できないほど、星が多い。
星座の本を片手にしばらく観察して、やっと、おうし座とぎょしゃ座を発見。
(2時から3時ごろだったので、夏ではなく、秋から冬の星座ですな)
すばるを観察してちょっと感動。流星もちらちら降ってきました。

8月14日
恒例のお祭り&花火の打ち上げ。
祭りの会場には一度しか行ったことがないが、松田聖子のものまね芸人とか、
渥美清のものまね芸人とか、アマチュアバンドコンテストとかカラオケ大会
なんかをやってる。今年のゲストは本物の狩人だったので、ちょっとレベルアップ?

家の前の道路にイスを出して、花火観賞。
花火打ち上げといっても10分程度なのだが、
人込みもなく、目の前のでっかい花火を独占できるのはなかなか楽しい。

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(大きさがわかりにくいでしょうが、右側に写っている電柱で推測ください。)

8月15日
庭でバーベキューをやることになり、炭火を用意して、
焼き始めたところで、雨が降り出す。
しばらく、屋根の下に入ったり、傘をさしたりして、無理やり続行していたのだが、
雷が鳴り始めたところで、家の中に避難。
当然、避難が完了したあたりで雨が止んだり。
家のバーベキューは3回に2回くらいの割合で雨に降られているんですが。

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8月16日
用事があるので先に帰った妹から、「今、駅は大雨」とメール。
こちらは晴れていたのだが、空を見たら虹。
数分後にこちらでも大雨が降ったけど、すぐにあがって、また虹。

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最初の虹。中途半端な長さ。

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また虹。こっちの方が大きい。

『大聖堂』

大聖堂 (上) (SB文庫)

大聖堂 (中) (SB文庫)

大聖堂 (下) (SB文庫)


『大聖堂』
ケン・フォレット/著
ソフトバンク クリエイティブ

建築関係のサイトでオススメ本として紹介されていたものの、
新潮文庫版はすでに廃刊。SB文庫から復刊されたのを購入。
上・中・下巻、あわせて6センチの厚さという長編。
上巻、中巻は一気に読んだのですが、
忙しくてなかなか下巻に手を出せなかったのを夏休みにやっと読了しました。

大工のトム・ビルダー、謎の女エリン、エリンの息子ジャック、貴族の娘アリエナ、
伯爵ウィリアム・ハムレイ、修道士フィリップ、司教ウォールラン・バイゴッド
大聖堂建設をめぐる人々の壮大な物語。
作者が言うところの「愛と憎しみ、野望と貪欲、
欲望と怨恨と復讐とのヒューマン・ストーリー」というアオリは決して大げさではなく、
延々と続く宿敵同士の対決と復讐にわくわくします。
特に、ウィリアム・ハムレイがアリエナによせる、屈折した愛と欲望は、
どこまでも悪役である彼を非常に魅力的なキャラクターにしている。

「あなたはあの女を愛しているのか憎んでいるのか、いったい、どっちなのだ?
わたしにはさっぱりわからぬ」
「そうだろうな」と、ウィリアムはこたえた。「おれにだって、わからない」

敬虔な修道士フィリップが、自分なら人々の生活を改善できると思い、
修道院長をめざし、大聖堂の建立を願い、
その結果、政治に巻き込まれていくあたりもうまい。
国王の前では教会は力に勝てないのかと絶望しかかった彼が
最後に見出した希望は、神ではなく民衆だった。
(フィリップをめぐる政治対立に、スティーブン王とモードの内戦、
トマス・ベケット司教殺害など、イングランドの歴史がからむ。)

大聖堂はなぜ建てられたのか?、どうやって建てられたのか?
という疑問も小説の中でていねいに説明されている。
(たとえば、中巻では、石切り場の権利をめぐって争いが起きる。
羊毛を売った金で大工に賃金を払うのだが、
飢饉や災害で羊毛が売れなくなると、大聖堂の建設がストップするのだ。)
大聖堂のデザインの意味や、尖頭アーチの発明、
リブ・ヴォールドやフライング・バットレスの誕生が描かれ、
当時の大工たちがどうやって図面を描いていたのかまでわかる。

「トムの描いた身廊は高い。おそろしく高い。
大聖堂は人びとの感動を喚びさます建造物でなければならないのだ。
その大きさによって畏怖を感じさせ、その高さによって、
見る人の眼を天に引き上げるのである。
人びとが大聖堂にやってくる理由のひとつは、
世の中にこれほど大きい建物がほかにないからである。
大聖堂に行かないとしたら、その人は自分の住んでいる家と
大差ない大きさの建物しか見ずに人生を送ることになりかねない。」

「すべての大聖堂と教会堂のほとんどの平面図は、十字形をしている。
十字がキリスト教のもっとも重要なシンボルであることは、いうまでもないが、
そのほかに実利的な理由もある。袖廊をつくることで、付属礼拝所や、
聖具室とか香部屋といった付属室のための、有用なスペースが得られるからである。」

大聖堂の建設には30年以上かかっており、上巻ではまだ図面だけ。
10歳の少年だったジャックが、トム・ビルダーの後を継ぎ、
最終章では50歳を超えた建築職人になり、大聖堂を完成させる。
オープニングの謎が最後にはすべて明らかになって
運命の輪が一回転して綺麗な円を描く、その快感。

『高校野球が危ない!』

高校野球が危ない!
『高校野球が危ない!』
小林信也/著
草思社

ハンカチ王子フィーバーばかりが注目されたが、
優勝した早実はラフ・プレーが多く、斎藤佑樹投手も死球がめだつ。
そこにあるのは「とにかく勝てばいい」という価値観ではないのか?
騒がれた特待生制度の問題点は、「有望選手を集めれば勝てる」
と多くの野球関係者が考えていることだ。
また、特待生制度の裏には、生徒不足に悩む高校の現実がある。
選手のプロ入りに際して報酬を受け取る監督がいる一方で、
部活動の予算不足に苦しみ、金銭的見返りのないまま、
教員の仕事と野球の指導を務める監督もいる。
選手経験や野球指導の経験もあるスポーツライターの著者が、
現場取材を通して、高校野球の問題点を説いた本。

有望選手を集めるために、中学生の段階からスカウトが動いているとか、
選手がプロ野球に入ると監督に報酬が渡るケースがあるとか、
いろいろびっくりな実態が書かれているわけですが、
私自身は特待生問題が騒がれたとき、
「強い高校に行きたい生徒がいて、有望な選手を欲しい高校があるなら、
特待生制度だってありなんじゃないの? 
なぜ高校野球だけがお金のからまない純粋さを求められるんだ?」
と思ったりしました。
「選手を「集める」より、「育てる」べきだ」という著者の主張はもっともだけど、
野球によって学校の人気をアップしたい高校側の
切羽詰った感じも理解できないわけではないと思ったり。

高野連がユニフォームのロゴマークを一切禁止していたり、
甲子園のベンチには神社のお札も千羽鶴も持って入ることはできないとか、
一試合2時間と決まっている、といった話もびっくりなんですが、
高野連が厳しくしていることで、他のスポーツと違って、
高校野球は商業主義から守られている面もある、
という著者の意見には素直にうなづけなかったり。

この本がいまいちすっきりしないのは、著者が問題点を指摘する一方で、
そうならざるえない現状も説明しているので、糾弾しきれていないからだと思う。
おそらく著者は現場に近すぎ、高校野球を愛しすぎているのだろう。
「高校野球は、甲子園のためにあるわけじゃない。
勝てばいい、儲かればいいという考えではなく、
高校野球を通じて人格を形成する本来の目的に戻るべきだ」
という著者の主張は美しいけど、著者自身が
「高校野球にいかにお金がかかるか」という現状を描いている以上、
完全にクリーンな高校野球なんて無理なんじゃないの?
むしろ特待生やドラフトの報奨金ははっきりさせた方がいい気がするし、
スカウトや監督が暗躍するくらいなら、エージェントを導入した方がいいし、
甲子園の視聴率を気にするくらいなら、スポンサーだってありなのでは。

著者は早実のラフ・プレーをことさら問題にしていたり、
ガッツポーズにしても苦言を呈しているが、
フェアプレーや心技体を強調されるのも違和感を感じる。
高校野球を美化することでは何も解決しないのでは?

◆読者メモ

中学野球の監督が有望な選手を特定の高校に進学させ、
3年後、プロ球団にドラフトされた場合、
スカウトとの交渉は中学時代の監督が行なう。

高校野球ではユニフォームのロゴマークを禁止している。
メーカー各社は、日本高野連の基準に則った、
マークの入っていないユニフォームや用具を高校生用に作っている。

「うちの学校は、野球部とサッカー部、それに吹奏楽部の活動が盛んです。
各学年でそれぞれ30人ちょっとの部員がいれば三つの部だけで約100人。
全校で300人の生徒が確保できます。
このほかに、有名校への進学を目指して一生懸命勉強してくれる
生徒たちが何割かいれば、学校の経営は安泰です」

『サヴァイヴ!南国日本』

サヴァイヴ!南国日本
『サヴァイヴ!南国日本』
高城剛/著
集英社

地球温暖化によって、このままでいけば日本は“南国”化する。
サバイバルするためには、日本のライフスタイルや
価値観を変える必要がある。しかし、悲観的になるのではなく、
南国化する日本に適応する能力を身につけ、
より楽しくて新しいライフスタイルを追求しよう、という本。

『ヤバいぜっ!デジタル日本』『「ひきこもり国家」日本』
の高城剛の著書。私はあいかわらずこの人は苦手であるが、
最高気温が39℃を超えた日、かなりの実感をもってこの本を読んだ。

著者がいうには、すでに流行は温暖化の影響を受けているという。
ハウスミュージックは、ニューヨークやロンドンではなく、
スペインのイビサ島へと中心地が移動し、
ファッションはパリやミラノではなく、
LA、マイアミやカリブなど南国リゾートへと移り変わっている。
(冬のノースリーブやランジェリー・ファッションも、その表れだそうだ。)
日本でもレゲエが流行るだろうし、沖縄料理が注目されているのも
日本人の気分や身体が南国化しているからだという。

「環境問題を騒ぐ人ほど、スロー志向だけど、
大変ならスピード志向で問題解決にあたるべきじゃないか」
という著者の主張には共感する。
環境対策がなんだか貧乏くさいエコロジーの話や
地球規模の話になってしまうのには違和感を感じていた。
できることからコツコツ始めようという考えは美しいけど、
サスティナブルとかエコバッグで、
39℃を超えた気温をどうにかできるんだろうか。
もっと急いで、もっと根本的に、何とかしなくちゃいけないんじゃないか?

もっとも著者が提案しているのも、
「エアコンを28度設定に、ではなく、エアコンがなくても問題ない身体づくり」
「ライフスタイルの見直し(コンビニをやめる、車を週1回にする)」
「日本版ダーチャによる食糧の自給自足」
「日本の省エネ技術を使って環境大国に生まれ変わる」
など、具体的ではあるが、エコバッグと大差ない感じも。

そもそも、北海道と東京と沖縄に家をもって、
海外を飛び回る著者の生活なんて、自分とはかけ離れている。
「(沖縄のビーチパーティは)自室にある200インチを超える大スクリーンと
最新型のデジタル・プロジェクターとサウンド・システムより、気持ちがよかった。
そこには、自室に数多くあるような高価なフィリップ・スタルクの椅子も
マーク・ニューソンのランプも、まったくない。20年近く前のラジカセだけなのだ。」
という文章に「けっ」と思わない人がいるんだろうか。

いじわるな見方をすれば、ITや広告の世界で生きてきた著者が、
沖縄の生活にめざめて、「これからは南国だぜ、レゲエだぜ、DJだぜ」
と言っているだけのようにも見える。
(「ハイパーメディア・クリエイターという謎の肩書きも、いま思えば
社会への抵抗だったんだと思う。サラリーマンではないので、
肩書きは関係ないですよ、そういう意味なんですよ、
と何度もインタビューで話しても、それが活字になることはなかった。」
という話は「へー、そうだったんだ」と思ったけど。)

もともとのライフスタイルが違うのだから、「ライフスタイルを変えよう」
という意見も全面的に鵜呑みにしてもしょうがない。
まあ、それでも、温暖化の原因は?とか言ってる場合じゃなくて、
温暖化する日本で生きていく方法を考えようという主張には賛成。

◆読書メモ

これはIT的にいえば、ユビキタス(神々があらゆるところに遍在するの意)であり、
欧米のユビキタス(たったひとりの神が、あらゆるところに遍在する)といわれるものと
根本的に異なる。この自然の中に神が無数にいらっしゃると考える思想の日本と、
一神教である欧米の自然への取り組み方は、根本的に違っていると考えてよい。

近代的なインテリアの中で、マスクをしながら消毒液ペーパーで手を拭き、
席につくなりアンテナ感度の確認と携帯メールのチェック。
これは、まるで子供のときに見た悪夢のSF映画だ。

テレビの影響力は思った以上にある。無料でもない。
じつは、自分の時間や考え方と引き換えているのだ。

『めぐり逢い』

めぐり逢い
『めぐり逢い』

トム・ハンクスとメグ・ライアンの『めぐり逢えたら』を見たとき、
『SLEEPLESS IN SEATTLE』という素敵な原題があるのに、
なんでこんな中途半端な邦題なんだ?と最初、思ったのだけど、
私が無知だっただけで、もちろんこの『めぐり逢い』にかけている訳だ。
そう考えるとむしろ粋な邦題といえるかも。
『めぐり逢えたら』では、メグ・ライアンと女友達が
いかに『めぐり逢い』が泣けたか、と大騒ぎして語っているんだけど、
ラスト、素敵だったけど、泣けるって感じではなかったなー。
むしろ現代の感覚で言うと、デボラ・カーのつつましさが
「えー、それでいいの?」と思ってしまう。
ラストから考えると、彼が自分を裏切っていないことも
すべて承知してるはずなのに。(だから泣けるって話もあるんだろうけど。)

ストーリーとしては単調ともいえる作品を
これだけ魅力的にしているのは、主演の2人の見せ方がうまいから。
クラシック映画にしては長いんだけど、
2人がどうしてお互いを好きになっちゃうのか、
ちゃんと理解できる、ていねいな描き方が心地いい。
船の階段を登っていくデボラ・カーと、引き止めるケイリー・グラントの
足しか映さないキス・シーンとか、
婚約者と抱き合っているデボラ・カーの手に、
指ひとつでキスを残すケイリー・グラントの仕草とか、
誰もいないピアノや椅子に触れる姿とか、いちいちかっこいい。
対するデボラ・カーも、ケイリー・グラントが触れた手を
ゆっくりソファーに降ろす仕草が、いかにも「心残り」な感じで良い。
この映画のとき、デボラ・カー36歳、ケイリー・グラント53歳なんだけど、
こういう大人のロマンスを演じられる俳優って今なかなかいないよね。

『ユビキタスとは何か』

ユビキタスとは何か―情報・技術・人間 (岩波新書 新赤版 1080)
『ユビキタスとは何か 情報・技術・人間』
坂村健/著
岩波書店

著者はTRONプロジェクトのリーダーであり、
YRPユビキタス・ネットワーキング研究所所長という肩書きの人。
ユビキタス構想について、考え方、技術、実証実験、
インフラ整備のための問題点などについて書かれている。

大きくまとめると、いろんなものに“ユビキタス・コード(uコード)”と呼ばれる
ユニークな番号をつけて、“ユビキタス・コミュニケータ”でuコードを読み取ると、
ネットワーク経由で、その物に紐付けされた情報を取り出してくる、
というのが“ユビキタス・コンピューティング”の仕組みだ。

データをuコード自体に埋め込むのではなく、ネットワーク外部化することで、
買った薬に後から問題が起こった場合、メーカーがデータベース情報を
書き換えれば、薬を飲む前にそれが安全かどうかチェックできる。
(データをuコードに埋め込んでしまうと、後から書き換えができない。)

そのほか、uコードによって、物と物の情報がリンクすることで、
消費者は、お弁当の食材が何であるか、生産者は誰であるかを
知ることができるし、流通業者は、生産管理としてuコードを利用できる。
など、ユビキタスの可能性についても語られている。

「ユビキタス・コンピューティング研究の究極の目的は、
現実の世界のコンピュータによる完全認識ということになるでしょう。
それによって、社会全体の効率化をはかろうということなのです。」

個人でもuコードを取得して、
自分の持ち物につけることができる応用範囲の広さが、
バーコードやEPCコードのような製品コードとは違うところだとか、
アクティブ・タグとパッシブ・タグの2種類の電子タグの話だとか、
技術的な話もでてくるのだが、後半中心となるのは、
「ユビキタスは技術ではなく、インフラである」という話。

MOT(マネジメント・オブ・テクノロジー)
「技術それ自体ではなく、何の目的で、どう技術を使うか」ということを考える。

たとえば、アメリカで研究されている紫外線LEDは、
細菌検出器にもなるので、軍予算で開発が進められているが、
医療器具にもなるし、高密度記録可能なDVDの部品としても期待されている。
つまり、「技術をどう使うか」が大切なんだということで、
実現するための技術はすでにあるが、インフラとして整備するためには
社会の理解や制度が必要だということが何度もでてくる。

ここらへんの話がくどくて、何年も前からユビキタスという言葉だけは
ひとり歩きしているのに、いっこうにユビキタス社会が実現しないことに対する
著者の怒りみたいのさえ、感じられる。
まあ、ここにでてくるユビキタスの可能性だけを読んでも、
買った商品の生産者がすぐにわかるのって便利なの?
銀座を歩いていたら、建物の説明が表示されるのって楽しい?
という感じであり、そこは著者が説明しているように、
「インターネットによって、孫の写真をおじいちゃんに一瞬で送れるようになる」
と語ったところで、それはインターネットが実現可能な話の一例であって、
実現するだけなら、カラーファックスの方が簡単にできる。
ユビキタスで実現できる例を語ったところで、
ユビキタスは実現できない、ということらしい。
何を言ってるかわかりにくいと思うけど、実際、そういう内容の本です。

『フィードがグーグルの世界制覇を阻止する!』

フィードがグーグルの世界制覇を阻止する!―ウェブからリアルへの逆流が始まった
『フィードがグーグルの世界制覇を阻止する!
ウェブからリアルへの逆流が始まった』

小川浩/著
ビジネス社

著者の小川氏は、サイボウズで『フィードパス』をプロデュースした人であり、
『Web2.0 BOOK』の共著者でもある。
サイボウズは数年前から積極的にフィードを推進していたのだが、
正直なところ、私にはなぜフィードをそこまで熱心に押すのかよくわからなかった。
その理由を小川氏自身が語ったのがこの本。

フィードというよりRSSといった方がピンとくる。
現在は、更新情報を通知するだけの役割しかなく、
フィードリーダー(これもRSSリーダーといったほうがピンとくる)は、
「ブログを読むためのツール」でしかないが、
やがてフィードは新しいメディアになる可能性があると著者は言う。

「新聞もとらず、新聞社のニュースサイトにも行かず、
ヤフーのトピックスに載っているニュースしか見ていないユーザーは実に多い。」
「フィードリーダーを使えば、自分でウェブの中に分け入って
情報を探しに行く必要はなくなる。更新情報をもらっても、
興味がなければ見に行かないし、ニュースを扱うサイトやブログの場合、
更新内容を見てしまえばウェブに行く必要はなくなる。
ウェブを見る機会は今より少なくなる。」
として、ウェブのページビューは相対的に下落し、
ポータルのトラフィックは低下する(De-Porttalizationディポータライゼイション)という。

ウェブの検索において覇者となったグーグルだが、
フィードはウェブとは違うフォーマットであり、
ページリンクが役に立たないトラフィックである。
フィードにおいて新たなブレイクスルーを起こしたものが、
次のネット世界の覇者になる。それはグーグルではなく、
マイクロソフトかもしれないし、ベンチャー企業かもしれない。

ティム・バーナーズ・リーが提唱した、「あらゆる情報がリンクされ、
なにか一つのデータを更新すれば、それにかかわるすべてのデータが
連動して修正される」セマンティック・ウェブを、フィードは実現する。
ニュースはフィードで読むのが常識になり、
ブログやSNSはフィードに置き換わる。
携帯電話はフィードを読むのに最適のツールであり、
やがて、フィードは文字列ではなく、感情や気分を伝える
テレパシーのようなものになるかもしれない。

(まとめが長くなってしまったが)ざっとそんな内容。
この本を読む人ならRSSリーダーくらい使ったことがあるだろうけど、
そもそも現在のフィードとはこんなもので、こんな使われ方をしているという
大前提の説明が少ないので、著者がミサイルやネアンデルタール人のたとえで
フィードを説明しようとしても、抽象的でわかりにくい。
第1章で何度もでてくる「それがフィードだ」という言葉がむなしく響く。

後半に具体的なフィード・ビジネスの例が出てきて、
やっと、フィードの可能性が信じられる気になってくる。
つまり、今みたいにウェブの更新情報を伝えるのではなく、
フィード自体がニュースやブログ記事そのものになれば、
もうウェブなんていらないし、検索エンジンやポータルも
力を持ってられなくなるでしょ、という話だ。
著者自身も認めているように、フィードが新しいメディアになるためには、
ブレイクスルーが必要で、そのブレイクスルーはまだ起こっていない。
(グーグルがネットのあり方を決定的に変えたように、
フィードも革新的な変化がないと、今以上に普及することはないだろう。)
個人的にはニュースサイトがフィードで構成されるようになるとは思うけど、
このブログ記事がフィードに置き換わるのってそんなに便利かな、とも思う。

前から思っていたのだが、グーグルの検索がページランクを基本にしているなら、
ページとページがリンクしなくなったら、
グーグル検索は成り立たなくなるのではないだろうか。
ハイパーリンクはウェブの基本だけど、
リンクを必要としなくなるときがくるかもしれない。
その意味で、リンクを必要としないフィードがグーグルの覇権を脅かす
という考え方には多少、共感できたが、
はたして本当にウェブの次がフィードなのかはよくわからない。

◆読書メモ

初期に設定したとりあえずの試験的な仕様が、本来のあるべきレベルの
仕様に置きかわる間もなく、世界中に普及してしまった。
ネットスケープの開発者であるマーク・アンドリーセンは、
「ブラウザの『戻る』ボタンは、あれでよかったのだろうか」と、
いまだに言っている。

エル・カミノ・リアル『EC Real Reader』
modiphi
Feed Burner
サムライワークス、フィードフォース
digg
Feedxs.com
edgeio
Feedster
マイクロフォーマット

『秒速5センチメートル』

秒速5センチメートル 特別限定生産版 DVD-BOX
『秒速5センチメートル』
at 下高井戸シネマ

独特の世界観で人気を集めている新海誠の最新作。
この作品を見る前に、ヤフーで配信されていた、
『彼女と彼女の猫』、『ほしのこえ』、『雲のむこう、約束の場所』
と立て続けに新海作品を見たのだが、この人のテーマはいつも同じ。
遠い日の恋、失くした夢、宇宙への憧れ、
移り変わる四季の美しさ、「私はここにいるよ」

主人公が『北の国から』の純くんのように、ぶつぶつと独白する構成も同じ。
(『雲のむこう、約束の場所』は吉岡秀隆が声優を務めている。)
正直、そのセンチメンタリズムには辟易する。
ヒロインがいつも「お前はエロゲーのキャラクターか」と言いたくなるほど、
リアルさの欠片もない、うすっぺらくて甘々なのもどうなのか。
(『雲のむこう、約束の場所』でサユリが「飛行機! すごい!」と言って
走り出す場面があるが、今どきアニメのキャラクターだってあんな女の子走りしないよ)
リアルに書き込まれた背景の一方で、内容的にも絵的にも
まったくキャラクターに魅力がない。
延々としゃべり続けるナレーションだけがキャラクターを支えている。

『ほしのこえ』の宇宙間遠距離恋愛や、
『雲のむこう、約束の場所』の分断された日本といったSF的設定がないぶん、
『秒速5センチメートル』は純粋にラブストーリーで甘々度もパワーアップ。
そんなに初恋が大事なら獲得する努力をすればいいじゃん、
あきらめて消えてしまう恋なら、いつまでも追い続ける必要があるのか、
再会したとしても、理想化された彼女と現実の彼女は違うはずなのに、
と主人公に最後までイライラ。
なんつーか、壮大なラブレターみたいな映画だと思ったのだが、
他人が他人に贈ったラブレター読んでもね。

とまあ、欠点はいろいろあるのだが、人気があるのもよくわかる。
うすぺっらいキャラクターに対し、背景がもつ圧倒的な力。
『雲のむこう、約束の場所』の電車内の場面では、天井を光が走るのだが、
いつも電車に乗っていても私にはそんな光は見えない。
おそらく、新海誠にしか見えない光があるのだ。
めちゃくちゃ書き込まれているが、「リアル」という訳でもない。
新宿駅など知ってる場所が出てくるとそれは明らかで、
この映画の新宿駅は未来都市のような美しさで輝いている。
きっと、これも新海フィルターがかかっているのだ。
太陽の光や雲や星にいたってはアニメだからできる絵。
人が出てこない場面ですら実写でつくろうとしても絶対に無理。
振り向いたところに回り込む夕陽や、綺麗な放物線を描いて上昇する紙飛行機
なんかも、すべてアニメだからできる美しすぎるシーンだ。
(ロケットが飛んだときはいくらなんでもあんまりだと思ったが)

この人の持つ絵のパワーはたしかにものすごいものがあるので、
脚本とキャラクターデザインをまったく違う人にするとか、
まったく違う世界観の原作がある作品に取り組むとか、
どっかのアニメスタジオのプロジェクトを一度手がけてみるとか、
今までとは違う取り組みをしてほしいなと思う。
今のまま、自分の好きな世界を小さなプロジェクトで作り続けても、
マニアックなファンは支持するだろうけど、
こんな同人誌的なことをやってるのはもったいないと思うのだ。

ほしのこえ(サービスプライス版)
『ほしのこえ』
新海誠の第2作。これもほぼひとりで作っているとか。
携帯のメールが数ヵ月や数年の時差を経て届くというところがよい。
“携帯メールでいつでもつながっている”という幻想を
この設定によって、いったん打ち壊し、それでも二人の間に絆はあるのか?
という宇宙間遠距離恋愛の話になっている。
ロケットを見上げる場面は『秒速5センチメートル』でも同じようなシーンがある。
この人はロケットそれ自体より、雲が描く軌跡が好きなんじゃないのか?

雲のむこう、約束の場所
『雲のむこう、約束の場所』
南北に分断した日本(正確に言うと北海道と本土?)という設定が
多少スケール間を感じさせるものの、
「眠り続ける彼女を救うのか、世界を救うのか」という世界系のお話。
少年2人と少女1人が出てくるけど、これもやっぱり基本的には
少年がひとりの少女を想い続ける話だから、男の子はひとりでも良かったのでは。
『秒速5センチメートル』もそうだけど、少女のキャラクターに魅力がないので、
なぜそこまで彼女を想い続けるのか共感しにくい。
中学生の夏に「彼女が世界のすべてだった」としても、
大人になってまで「彼女=世界」なんて、どうなの。
(SF的設定により、文字通り、彼女は世界のキーなのだ)


『ネット広告がテレビCMを超える日』

ネット広告がテレビCMを超える日 (マイコミ新書)
『ネット広告がテレビCMを超える日』
山崎秀夫、兼元謙任/著
毎日コミュニケーションズ

新書にしてはめずらしく、タイトルどおりの内容の本。
地上デジタル放送の開始により、ローカル局の経営が圧迫される。
法改正により、IPマルチキャスト放送、ビデオ・オン・デマンドが
本格的に始まり、他社の参入により業界再編が起こる。
ハードディスクレコーダーの買い替えも増え、
テレビの視聴スタイルが変化する。結果的に、
現在の視聴率をベースにしたテレビCMのビジネスモデルは崩壊する。
という、経過説明と、日本より危機感のある米英のテレビ業界事情、
ネットマーケティングの最前線が紹介され、
「ネット広告がテレビCMを超える日」を2018年と予測する。

『テレビCM崩壊』とか、『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』
『ネットはテレビをどう呑みこむのか?』など、既存本と比べると、
それほど目新しい話をしているわけではないが、
これらの話がコンパクトにまとまっていて読みやすい。

未来予測として、テレビ番組は視聴者によって評価がつけられるのでは、
としてるあたりはおもしろい。
「この番組を見た人はこんな番組も見ています」とリコメンドされるわけだ。
USA TODAYのサイトでは、会員同士を興味のある記事で結びつけ、
SNSを意識したシステムになっているという話や、
次世代IPネットワーク「NGN」、
ステルスマーケティングがなぜ消費者の反発を買うか、
セカンドライフを含むゲーム内広告についての話まで、
手広くネットマーケティングの手法を紹介している。

この本では、ネット広告がテレビCMを越えたとしても、
必ずしもテレビ業界が減収になるわけではなく、
ネット広告にテレビ業界が乗り出す可能性も示唆している。
(まあ、たぶんそうなるんでしょうね。
そうすると、電通とか博報堂の天下はやっぱり揺らがないのか。)
あと、「ネット広告がテレビCMを超える日」を2018年としているが、
私の感覚では、あと10年以上もかかるとは思えない。
テレビ業界がネットにシフトするのであれば、なおさら、
テレビとネットの堺はあっという間になくなるだろう。

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