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『走ることについて語るときに僕の語ること』

走ることについて語るときに僕の語ること
『走ることについて語るときに僕の語ること』
村上春樹/著
文藝春秋

ねーさんをはじめ、私の周囲のランナーたちから
大いなる共感をもって受け止められている
村上春樹が「走ること」について語った本。
この本を読みながら年を越しました。

「なぜ、走るの?」
「走るのって辛いだけで、どこがおもしろいの?」
ランナーであれば、一度や二度、聞かれた経験のある質問。
そしていつもうまく答えられたことがない。
ランニング本を作って、いろんなランナーに会って、よくわかったのは、
結局、私たちは美容とか健康とかタイムとかのために走っている訳じゃない
ということ。じゃあ、何のため?、というのは人によって微妙に異なるので
やっぱりうまく答えられないんだけど、私の場合はひと言でいうなら、
「強くなりたいから」なのかなと、この本を読んで思いました。

「長距離ランナーの孤独」とか、走っているときの自分との対話とか、
努力の結果で得られるタイムとか、ゴールした時に得られる何かとか、
そういう漠然としたものを、村上春樹はちゃんと言葉にしているので、
ランナーにしてみれば「よくぞ言ってくれました」って感じなのでは。
(さすがに100キロマラソンについては、理解の範囲外。
「もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった」
という素敵なサブタイトルがついていますが、
これが「筋肉の革命議会」のことだとは。うーん、まだまだ経験したくない。)

フルマラソンを人生に例えるランナーってのは結構いるんだけど、
たしかに「生きること」と「走ること」はどこか似ているのかも。
村上春樹が「嫌なことがあるといつもより少しだけ長い距離を走る」
という気持ちはよくわかる(実際にやったことはまだないけど。)
おおげさに言えば、人生の苦しみとか生きることの困難を
走ることで乗り越えようとするわけだ。
あるいは、走ることで乗り越えられる自分になろうとする。
(まあ、私の場合は、「仕事でむかつくことがあった」程度の困難なのですが。)
もちろん、走ることと人生はリンクしているわけではないので、
その距離を走れたからといって、人生の困難が減るわけじゃないのですが、
まあ、それでも走るのがランナーなので。

「少なくても最後まで歩かなかった」というサブタイトルには、
へっぽこランナーでごめんなさいって感じなのですが、
私は村上春樹ほどストイックな人生観のランナーではないので、
とりあえず「歩いたけど、完走しました」というのをめざしたい。


◆読書メモ

一般的なランナーの多くは「今回はこれくらいのタイムで走ろう」
とあらかじめ個人的目標を決めてレースに挑む。
そのタイム内で走ることができれば、
彼/彼女は「何かを達成した」ということになるし、
もし走れなければ、「何かが達成できなかった」ことになる。
もしタイム内で走れなかったとしても、やれる限りのことは
やったという満足感なり、次につながっていくポジティブな手応えがあれば、
また何かしらの大きな発見のようなものがあれば、
たぶんそれはひとつの達成になるだろう。
言い換えれば、走り終えて、自分に誇り(あるいは誇りに似たもの)
が持てるかどうか、それが長距離ランナーにとっての大事な基準になる。

昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。
長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、
それは過去の自分自身なのだから。

誰かに故のない(と少なくても僕には思える)非難を受けたとき、あるいは
当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、
僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。
いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。
そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。
いちばん底の部分でフィジカルに認識する。
そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、
ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。

走りながら、自分の身体の組成が日々変化を遂げているという感触があったし、
それは心嬉しいことでもあった。三十歳を過ぎた今でも、僕という人間の中には、
まだそれなりに可能性が残されていたのだなと感じた。
そのような未知の部分が、走ることによって少しずつ明らかにされつつあるのだ。

人は誰かに勧められてランナーにはならない。
人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。

こういうものすべて「夏バテ対策」というよりは、あくまで身体が自然に
「そうしてください」と求めてくることなのだ。
毎日身体を動かしていると、そういう声が聞こえやすくなってくる。

もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。
走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、
走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。
僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」を
ひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。
暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。

与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に
自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、
それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)
メタファーでもあるのだ。

「苦しい」というのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。
もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざ
トライアスロンやらフル・マラソンなんていう、
手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう?
苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、
自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、
僕らはその過程に見いだすことができるのだ。

そんな人生がはたから見て-あるいはずっと高いところから見下ろしてー
たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、
あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、
それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。
(略)少なくとも努力をしたという事実は残る。
効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、
結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、
ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。
そして本当に価値のあるものごとは往々にして、
効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。

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