« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

『70円で飛行機に乗る方法』

70円で飛行機に乗る方法 マイルを使わずとも超格安で旅行はできる [宝島社新書] (宝島社新書 274)
『70円で飛行機に乗る方法
マイルを使わずとも超格安で旅行はできる』

著 高城剛
宝島社

シンガポールからプーケットまで約70円、
ロンドン―パリ間が約160円という激安航空券を提供する
LCC(ローコストキャリア、格安航空会社)を紹介。
大きく変わった飛行機の旅と、
海外から大きく出遅れている日本の空港事情を考える。

高城さんの本はいつもそうだけど、いきおいがいいので、
読んでる間は「うんうん」と楽しく読めるが、ふと我に返ると、
「海外の航空運賃が安くなり、空の旅の敷居が低くなったのはわかった、
でも、だからって誰もがポンポン海外に行けるわけじゃないしねー」
と思ってしまうのだ。

格安航空会社や日本の空港事情を通して
この本で著者が一番いいたいことは、
「閉鎖的な日本から海外へ飛び出せ」
ということであり、それが正しい意見だということも理解できる。
しかし、そこになんとなく違和感を感じてしまうのは、
海外を飛び回り、ロンドンに長期滞在する著者の視点が、
やっぱりどこか自分の日常とかけ離れているからだろう。
いじわるな言い方をすれば、「金があって、
自由業(クリエイター)な人に何言われてもね」と思ってしまうのだ。
「日本にもLCCが登場すべきだ」という主張も
「僕がもっと便利になりたい」と言ってるだけにもみえる。
(ここらへんの違和感は『サヴァイヴ!南国日本』と同じ。)
いまや“エリカ様の彼氏”として有名な著者が
「テレビ画面で空港が映るときは「あの芸能人が海外から帰ってきた」
などのくだらないニュースを流すときくらい。」と書いているのも、ちょっと苦笑。

「成田は深夜23時から早朝6時まで航空機の発着ができない。
夜の9時台で人がいなくなるような主要空港は成田くらいだろう。
今の時代ではありえないことだ。」
と書かれているが、それが騒音問題や長い闘争の結果だということぐらい
当然、著者だってわかっているはずだ。
成田の歴史とこの本の論点が関係ないのは理解できるが、
そこらへんすっとばして、「世界の空港に比べて成田は遅れている」
と主張されても、という気もしてしまうのだ。

まあ、なんだかんだいって、
とりあえず健康にならないことには飛行機にも乗れない
現在の私の恨み言なのかもしれないけど。


◆読書メモ

この「サウスウエストの航空券が安い」という情報を手に入れていれば、
有利な条件のもと移動することができる。しかし、この情報を知らなければ
不利益な条件でのフライトとなってしまう。この情報を手に入れているか否かは、
今後僕らがグローバル化した世界を生きる上において非常に重要なことである。

ラストミニッツ・ドット・コム

グローバリゼーションというのはすべてを世界化することではなく、
ここからここまでをオープンにして世界と協調し、ここからここまでは
僕らのものだから守っていこうと、線引きすることをいうと思う。

最大のネックは日本脱出にある。宇宙へ飛び立とうとするロケットが
重力の抵抗にあうように、僕らは日本から出るところが最大の難関だ。
そこを抜ければ、いろいろなものがつながった世界へ行ける。

はけの森

3日連続で武蔵小金井に行くはめになったので、
せっかくだから、シュークリームがおいしいと聞いたお店によってきました。
武蔵小金井の南口から徒歩15分。
いちおう、近くまでバスもあるらしいが、てくてく歩く。

P1000195b
はけの森美術館の中にお店があるのですが、
美術館の北門をまがったとたん、それまでの車道とはうってかわった世界に。

P1000199b
旧中村研一邸を改装した美術館の喫茶棟。
目的のお店はこの中にある『オープン・ミトン』。

P1000197b
ケーキが目当てだったが、お腹がすいたのでランチ・セットを頼んでみる。
チキンもおいしかったけど、パンがうまい。

P1000201b
美術館の南門。『武蔵野夫人』のモデルになった場所だとか。

P1000203b
美術館南門を出たところにある、はけの小路。
ほんとに小路なんだけど、水が流れていたり、色の濃い緑が気持ちいい。

行きは北門から入ったので、帰りは南門から帰る。
このへんは緑も残っていて(小金井市が積極的に残しているらしい)
寂れた風情がとても良い。

P1000205b
キウイフルーツニュース。気になる。

P1000206b

P1000207b
向うに見える建物の古さが好み。
病院か学校関係かと思ったら郵便局らしい。

P1000208b
建築基準法のすき間をぬうような(いや、本当のところは知らないが)
細いビル。

P1000211b

P1000215b
目的のシュークリーム。1個250円。
たしかにおいしいんだけど、小さいのでパクっと食べて終わってしまう。

父の実家があった関係で私の本籍地は実は小金井。
パスポートなどで戸籍が必要なときだけ武蔵小金井にやってくるんだけど、
住んだことも一度もないし、役所まで以外の道を歩くのは今回が初めて。
ちょうど親から電話があったので、
「武蔵小金井のあたりを歩いたら緑が残っていて」と言ったら
母親が「あのへんは“はけ”っていって、結婚前に野川沿いをずっと歩いたわ」
という話をされる。何年前だ。
“はけ”ってたんに美術館の名前じゃなくて、小金井あたりの崖をさすらしい。
いつか、ちゃんと歩いてみよう。

『ケータイ小説的。』

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』
著/速水健朗
原書房

著者の前著『自分探しが止まらない』は、フリーターから
海外ボランティア、あいのり、中田英寿、高橋歩、路上詩人まで、
“自分探し”にのめり込む若者たちを描いてみせた好著だったが、
(以来、本屋にならんでる本のほとんどが自己啓発本に見える)
豊富な事例ゆえに、なんでもかんでも“自分探し”のように
テーマがぼやけてしまった感もあった。
豊富なサブカル知識を駆使した語り口が、
速水さんの本のおもしろさだと思うのだが、
今回は“ケータイ小説”をテーマに、それがピタリとはまっている。

ケータイ小説に見る浜崎あゆみの影響、『NANA』、紡木たく、
ヤンキー文化の復権へと展開していく分析は非常にうまい。
私は『渚のシンドバット』の浜崎あゆみの演技が結構好きで、
場合によってはいい女優になったのに、と思っている。
最近、彼女が『ツインズ教師』でレイプされる少女の役を演じていたことを知って、
たしか『未成年』でも家庭教師によって妊娠してしまう役だったよなー、
浜崎ってB級アイドル時代はそんな役ばっかりだったのね、と思ったのだが、
それが「あゆの擬似レイプ体験とトラウマ語り」として、
すっきり説明されていたのは、わが意を得たりといった感じ。
また、矢沢あいの初期作品が(特に絵が)紡木たくによく似ていたのは
私も覚えているが(というか、あの頃、『別マ』とか『りぼん』って
紡木たくの亜流があふれていた)、それをヤンキー文化の潮流として
浜崎あゆみから遡ってみせるところがおもしろい。

ここらへんまでは、ケータイ小説を1冊も読了していない私でも
読み解けるかもしれないが、そこからさらに、
ケータイ小説の背景が郊外であること(東京の不在)、
デートDV、アダルトチルドレンへと進んでいくあたりは、なかなか。
特に『恋空』のヒロと美嘉の関係がデートDVであるという指摘は、
「こいつらのベタベタと束縛する関係が恋愛なのか?」
と思いながら読んでいた私には、ひとつ謎が解けた気分。

ケータイ小説に見る現代の若者の恋愛観を
「コミュニケーション能力の劣化」と上から目線で批判することは可能だが、
それをせず、「コミュニケーションが変容し、社会が変容したのだから、
恋愛のあり方も変容して当たり前」と、むしろ、
ケータイ小説を許容できない大人たちの無理解を指摘するあたり、
著者らしいというべきか。

◆読書メモ

ここで生まれた物語(『電車男』)は、語り手である著者がこしらえた創作物ではなく、
そこで行なわれたコミュニケーションの過去ログなのだ。

むしろ、現代のヤンキーは、すでに権威や権力、
つまり親や学校といった反旗を翻す対象を失っていると言えるだろう。

文学書全般が大都市でしか売れていないという状況は、
もう何年も前から言われている出版業界での常識なのだが、
ケータイ小説はそれを打ち破ることで大ヒットを生んだのだ。
『ケータイ小説活字革命論』でも、都市部ではなく、
郊外でケータイ小説が売れていることが書かれていたが
本書では具体的なデータが載っている。)

セックスとは、人間関係の中ではもっとも軋轢の少ない
イージーなコミュニケーションである。
互いに体を求め合うだけで承認を得ることを可能にするセックスは、
傷つけ合う可能性のある会話などに比べて、
よっぽど単純なコミュニケーションなのだ。

「つながること」自体が重要で、その中身はたいして意味を持たない
というコミュニケーションの変化が起こっているのなら、
恋愛においても「つながること」にだけ価値が置かれ、
濃密なコミュニケーションは失われていくのではないか。

ディスコ及びディスコ音楽は、1970年前後のニューヨークにおいて、
黒人やイタリア系移民、プエルトリカンといったマイノリティたちの
コミュニティで生まれたものだ。しかも、マイノリティの中のゲイという、
二重のマイノリティたちによって生み出されたものである。
R&Bという黒人音楽が、1950年代から1960年代にかけて行なわれた
黒人の公民権運動の広がりとともに生まれた文化全般を指すように、
ディスコとは、1970年から始まった同性愛解放運動の広がりとともに
発展した文化全般を指す。

『絶対ハイビジョン主義』

絶対ハイビジョン主義―これからが楽しいテレビ生活 (アスキー新書 68)
『絶対ハイビジョン主義 これからが楽しいテレビ生活』
著/麻倉怜士
アスキー・メディアワークス

ブルーレイ発表会での話が印象的だった麻倉さんの本。
(そのときの感想はこちら。)
“エバンジェリスト”を自称するだけあって、
読んでいると、今すぐブルーレイレコーダーと大型テレビを買って
ハイビジョン生活を始めなければ!という気分になる。
(金銭的問題とスペース問題ですぐには無理ですけど。)

映像を説明する言葉も豊かで、たとえば
「松下の絵作りの特徴は、エンターテイメント志向が強いこと。
きらびやかで、コントラストが強く、色がリッチに乗っている。
一言でいえば豊饒な絵ですね。自発光型ならではの、
特に緑を中心とする色の良さが魅力です。
一般大衆のニーズをしっかり受け止め、
テレビ番組を見る楽しさが際立つ絵作りをしています。」といった感じ。

ハイビジョンの歴史から技術的な説明は勉強になるし、
テレビを買うためのメーカーごとの傾向と対策など、
具体的で役に立つ話も多い。

麻倉さんが画質をチェックするためのリファレンスディスクとして、
『シェイクスピア・イン・ラブ』をあげており、
(邦題『恋におちたシェイクスピア』。原題なのはこだわりなのか?)
その魅力を以下のように語っている。
「映像が非常にクリアで、情報量がきわめて多い。
映像情報が多いというだけでなく、質感もいかにも映画らしく、おいしい。
特に階調に関する情報が豊富で、暗部、中間部、明部と
チェックしたくなるポイントが山ほどある。」

ちなみにオススメBD作品としてあげられているのは、
『パイレーツ・オブ・カリビアン』
『Cine Dion:A New Day Live in Las Vegas』
『プラネットアース』
『イバラード時間』
『オペラ座の怪人』

ニューイヤー・コンサートの中継が、従来はSD解像度(720×480)で、
2004年のリカルド・ムーティの回からフルハイビジョンになったとか、
小澤征爾とアンノンクールの回はハイビジョンと称していたけど、
ヨーロッパ仕様のPAL方式のアップコンバートで甘い映像だったとか、
よく見てるなーと。

「SDとハイビジョンの違いは、技術的には情報量が6倍違うことですが、
私はそんなことより感動量が圧倒的に違うと思います。

ハイビジョンのニューイヤー・コンサートはまったく違うのです。
ハイビジョンでは単に情報を得るだけでなく、映像そのものの美と
臨場感に耽溺できます。大画面一杯に広がるハイビジョンの
ニューイヤー・コンサートは、ムジークフェラインザールの四方八方の金色、
赤と緑の華やかな花たちの光輝くシズル感、
そして聴衆の正装のきらびやかさ……などの極上の映像に、
さらにダイナミックなカメラワークも加わり、
めくるめく幸せな興奮を与えてくれるものです。」


◆読書メモ

映画は、大きな画面に被写体を配置する芸術なのです。
大画面で体感的に見なければ、制作者の意図は正確にはわかりません。
映画のメッセージは、大画面で見て、初めて理解できるのです。

マスタリングプロセス
従来はテレシネという、フィルムの透過光を
カメラで撮る方法が主流でした。
4年ほど前から、デジタルインターメディエイト(DI)といって、
フィルムの1コマ1コマを高解像度でスキャニングして
コンピューター処理する方法が導入されています。

テレシネの場合は、ソニーのHDCAMフォーマット、もしくは
松下電器のD5フォーマットのテープ媒体で収録。圧縮記録方式。
D1は直接ハードディスクに記録。非圧縮。
4K2K(解像度水平4000×垂直2000)の場合、1コマ40MB。
映画1本は約18万コマですから、全部で10テラバイト。
取り込み作業は2週間かかる。1コマのスキャンに2秒。

ドラマ映像で大事なのは情報量より情緒量です。

私はそれは、テレビで「本物」が見られる時代になった、ということだと思います。
本物とは、オブジェクトが持っている本来の色であり、ディテールであり、
質感です。単にきれいに見せるための高画質ではなく、
物の本質を見極めるための高画質。だからこそ、映画であれば
フィルムが持つ特有の質感や映像感が楽しめ、音楽番組では
映像監督の意図や思想が明確に見え、スポーツ番組ではより臨場感が高まる。
そしてジャンルを問わず、そんな制作者の作品に込めた思いまでが
見えてくるのです。

メディアの本当の進化とは、「新しいメディアでなければ絶対に楽しめない」
コンテンツが開発され、登場することではないでしょうか。

成城コルティ

マルティナのクレンジングミルクが欲しかったので、
店舗を調べて成城まで行ってきました。
(渋谷と銀座と表参道にも店舗があったけど、
アキバPTSD(だと私は思っている)で人混みがちょっと恐かったので
比較的、人の少なそうな成城に。)

成城コルティ、2006年にオープンしたのは知ってたけど、
初めてきました。
2階はオシャレな雑貨店にインテリアショップ。
透明な計量スプーンとか天蓋付きのベット(40万円)とか
かわいいけど、こんなに雑貨、必要としないしなー。
3階には小さいけど屋上庭園もあったり。

P1000179b
屋上庭園。

HANSEL & GRETELで化粧品買って、
三省堂で本買って、
3階の墨花居で点心セットを食べて、
1階の成城石井でお惣菜とパンを買って、
成城アルプスでモカロールを買ったら、気分はすっかり成城マダム。
と思ったら、成城アルプスで「お持ち帰りのお時間は?」と聞かれて
5分とか10分と答えられないあたりで、成城マダムじゃない自分に戻る。

P1000183b
成城アルプスのモカロール。
妹曰く「塩味が効いている」。
甘さ控えめというかバタークリーム(?)の味がしっかりという感じ。

P1000187b
衝動買いしてしまったマスコットハーモニカ。
「音鳴るんですか?」と聞いたら、
HOHNERはハーモニカ専門の楽器メーカーなので、
意外にしっかりした音がしますよ」とのこと。
帰ってから吹いてみたら、予想以上にきれいな音色が。
なんでもこの「LittleLady」は宇宙飛行士が宇宙からジングルベルを
奏でるのに使ったものだとか(こういうエピソードに弱い)。
といっても私、ハーモニカ演奏できないけど。

『キャラクターズ』

キャラクターズ
『キャラクターズ』
著/東浩紀、桜坂洋
新潮社

東浩紀と桜坂洋の共著による擬似小説。
昨年の『新潮』10月号に掲載され、一部で話題になった(と思われる)。

この小説の目的とそのための手法は早いうちに宣言されている。
つまり、
「実在のライトノベル作家・桜坂洋が
実在の批評家・東浩紀をキャラクターにした小説を書き、
後者がその合間合間に、キャラクターの東が記したという設定で
虚構的な文芸批評を挟んでいくというもの。
目的は批評のキャラクター小説化。」

「佐藤や桜庭の受賞劇が象徴する状況、つまり出身がラノベだろうが
ミステリだろうがSFだろうが要は「文学」になるためには
「私」の話を書かなければならない、というこの退屈な光景に
カウンターをあてることができるのではないか、と考えた。」

「「テクストの外はない」というデリダの有名な宣言は、
この国では裏返しで実現している。日本の文学にはむしろ
テクストの外部しかない。
以上の認識のうえで、ぼくたちはここであえて文芸誌の規則で
ゲームをしている。一種の私小説あるいは反私小説を記している。
だとすれば、この擬似小説では、たとえ嘘でもいいから、
作家のスキャンダルを演出しなければならない。」

ということで、キャラクター小説の形で反私小説を書き、
「純文学の脱構築」をめざしたもの、ということなのだが、
えーっと、なんていうか、できあがったものは「何これ」という感じ。
たぶん、この“小説”を純粋に楽しめるのは東ファンや文壇オタク(?)なのだが、
私は東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』『東京から考える』
鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』、『ウェブ社会の思想』は読んでいるけど、
この手の哲学的批評をおもしろいと思っているわけではないので、
(視点はおもしろいところもあるけど、何言ってるか基本的にわかんないし)
近代小説はほとんど読んでいないし、それをめぐる文壇のあれこれなんて
もっとどうでもいいわけで。

小説には、東浩紀や桜坂洋の私生活の一部、
桜庭一樹、佐藤友哉への複雑な想い、
そのほか、大塚英志、阿部和重、唐沢俊一、鈴木謙介、公文俊平、鈴木健、
柄谷行人、巽孝之ら実在の個人名が次々と登場し、何人かは小説の中で
悪口レベルの批判を受け、無残な死すら描かれているのだが、
それをもって“私小説”というなら内輪ウケ以上のものではないし、
途中で、東と桜坂が小説の進行についてもめて、
方向転換する場面が書かれていたり、
最初にめざした「批評のキャラクター小説化」は完全に失敗しているのだが、
その失敗すらも、「もしかしたらネタ?」という感じもあったりして。

川上未映子のブログで、東浩紀の小説に対する
宇野常寛のエッセイが紹介されていておもしろい。
『川上未映子の純粋悲性批判』日本文学再生会議
しかし、文学ってこんな頭でっかちなものなのか?


◆読書メモ

ただの人間には興味がない。
宇宙人、未来人、超能力者がいたらやって来い、と。
それは、一ライトノベルのキャラクターの言葉であると同時に
若者たちの気持ちでもあった。子供の頃は誰でも思ったはずだ。
机の引きだしや押し入れにドラえもんを、
箪笥に詰まった服の向こう側にナルニア国を。

そもそも、結婚し子供を儲けたということは、過去のある時点で
あるヒロインを選択済みということだ。人生はたった一度きりであり、
伝説の樹の下で幸せな結末を迎えたければ、
いまさら他の女の好感度を上げている場合ではない。

あらゆるひとが、文学はいまだに下北沢や西荻窪のような
猥雑な街で始まると考えている。

テクストは、書いた人間のそのときの意図とは異なって
読まれるものだ。野坂昭如だって『火垂るの墓』を書いたときは
〆切間際でどうしようもなかっただけと言っている。

小説には三つの層がある。「構造」と「内容」と「文体」だ。
ある内容が、ある構造に入れられて、
ある文章の形式のもとで書かれるのが小説だ。

しかし、近代小説とはそもそも、構造と文体を
(柄谷行人の隠喩を借りれば)「透明」にすることで、
読者が内容に焦点を合わせて読むことができるように作られた、
きわめて人工的な表現形式なのだ。

朝日は文壇と似ている。そして天皇と似ている。
だれもその権威を信じていないが、だれにも信じられないことで
その権威はゾンビのように生き延びる。
北大暁大はかつて『嗤う日本の「ナショナリズム」』で、
2ちゃんねらーは朝日を嗤い、貶め、否定するが、
まさにその行為によって朝日に依存していると分析した。
同じことが純文学とライトノベルにも言える。ライトノベル作家は、
あるいはその周囲に集う編集者は、純文学を嗤い、貶め、否定するが、
まさにその行為によって純文学に依存している。
そうやって、2ちゃんねるもライトノベルも、自分たちが信じないもの、
軽蔑しているものを延命させる。

単に笑わせるのであれば、泣かせるのであれば、それは作劇技術が
補填してくれる。人間の感情はスイッチみたいに押せるし、
言語や文化が違ってもその原始的なスイッチの位置が同じであることは
ハリウッドが証明している。

かつて二十三歳の新井素子が宣言したように、小説とは、
作家のためでも読者のためでもなく、
ましてや編集者や書店員のためでもなく、
なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、
可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」という
名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだということ、
そしてそれこそが、文学が人間に自由と寛容をもたらす
と言われていることの根拠なのだ。

『ウィキペディアで何が起こっているのか』

ウィキペディアで何が起こっているのか―変わり始めるソーシャルメディア信仰
『ウィキペディアで何が起こっているのか
変わり始めるソーシャルメディア信仰』

著 山本まさき、古田雄介
九天社

ウィキペディア日本語版が現在抱える問題点について追求した本。
企業や省庁による編集問題やイオンド大学事件、
西和彦ページ削除など、実際に起こった事例や、
ウィキペディア側、アンチウィキペディア側のインタビューを通して、
変わりつつあるソーシャルメディアを考える。

この本で、ウィキペディア日本語版の一番の問題点とされているのが、
誰も責任をとる者がいないこと。
(英語版には、ウィキペディア財団や創始者ジミー・ウェールズ氏という
代表者が一応いる。)
性善説によるユーザーの自治をめざすウィキペディアは
悪意のある参加者を排除できない。

ウィキペディアに「管理者」はいるが、
彼らは基本的に一般ユーザーのひとりであり、
ブロックや保護の操作ができる権限をもっているにすぎない。
管理者は投票によって選ばれ、
書き込みがガイドラインに違反していると判断された場合、
措置を取ることができるだけで、彼らが積極的に「運営」をしているわけではない。
裁判などの問題に発展した場合は、アメリカのウィキペディア財団に直接、
訴えるしかなく、現実的にはとてもハードルが高い。

そもそも、こうしたウィキペディアの自治の仕組みというのを
初めて具体的に知ったので、「みんなで運営する」という精神が
わりと崇高に流れているのにびっくり(お題目だけだろうと思っていた)。
そして、黎明期ならともかく、ユーザーが増え、
ウィキペディア自体の注目も高くなった現在、
その理想がかなり揺らいでいることもわかった。

「書き込み」は誰かが責任を取らなくてはいけない。
2ちゃんでは匿名性の責任をひろゆきという個人がひとりで負っている。
(この指摘はわりと目からウロコ。
本来、書き込みに問題があった場合、
訴えられるのは書き込んだ本人であるはずだが、
2ちゃんの場合は、ひろゆきが訴えられる。
ひろゆきが責任を負っていることで、2ちゃんの匿名性は維持されている。)
ウィキペディアの場合は、この責任を誰も取らない。

ウィキペディアが抱えてる問題は、
ソーシャルメディア全体を代表するものだとか、
Google版ウィキペディア『knol』の試みとか、
いろいろおもしろい指摘は多いのだが、
著者(2人いるけど中心となっているのは山本氏)の主張が強すぎて、
なぜイオンド大学の事例が、ネット全体の問題になるのか、
いまひとつ説得力が弱いところや理解しにくいところも。

「みんなの意見は案外正しい」けど、「真実」ではなかったり、
「案外正しい意見」では、ジャーナリズムになり得ないとか
そもそも「みんなの意見」って何さ、
ということを考えるきっかけにはなりました。

◆読書メモ

著者がウィキペディアと対照的な例として上げているのが、
ニュースサイトDiggの事件。
次世代DVDの暗号化鍵についての書き込みやリンクを
Diggが削除したところ、ユーザーは「検閲だ」として猛反発。
数日後、Diggの設立者ケビン・ローズは以下のコメントを発表。
問題となった暗号化鍵そのものがコメントのタイトルとなっていた。
はたしてこのような気骨のある態度をウィキペディアは示せるだろうか、
というのが著者の主張。

「けれども今、何百という物語を見て、
そして何千というコメントを読んで、はっきりした。
あなたは大企業に屈服するより
Diggが戦って倒れるのを見たいのだ。
あなた方のいいたいことがわかったので、ただちに我々は
コードを含んでいる記事やコメントを削除することをやめる。
そしてその結果、何が起きたとしてそれを受け入れるだろう。
たとえそれで負けたとしても、我々は戦って死ぬのだから。」

多摩川サイクリング

すでに2週間前の話なのですが、
多摩川にサイクリングに行ってきました。

二子橋から多摩水道橋まで往復で約1時間半。
(ルートマップはこちら。こういうの簡単に作れるっておもしろい。)

P1000103b
二子橋。

P1000105b
野球場やフットサル場はほぼ満員。いくつも試合が行なわれていました。

P1000107b

P1000117b
小田急多摩川橋。

P1000120b
宿河原堰。

P1000124b
二子橋から見た人々(のほんの一部)。

天気は良かったけど、基本的に似たような景色なので、
正直、途中、自転車に乗るのに飽きたり。
しかし、休日にバーベキューしたり、野球したり、
サイクリングしたりしている人がいっぱいいることにちょっと驚き。
(はたから見たら私もその1人なんだけど、私は半分仕事だし。)

サイクリングの後は玉川高島屋へ。
ランチを食べたらサイフに1500円しか残ってなくてあせったものの、
せっかくだからとウィンドーショッピングしてるうちに、
結局カードで買い物をする始末。
家に帰り着くころにはもう暗くなっていて、
私にしてはアクティブな週末でした。

P1000155b
ウンナナクールで買った夏用素材のハラマキ。

P1000127b
高島屋で限定販売していた太郎坊だんご。

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »