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『キャラクターズ』

キャラクターズ
『キャラクターズ』
著/東浩紀、桜坂洋
新潮社

東浩紀と桜坂洋の共著による擬似小説。
昨年の『新潮』10月号に掲載され、一部で話題になった(と思われる)。

この小説の目的とそのための手法は早いうちに宣言されている。
つまり、
「実在のライトノベル作家・桜坂洋が
実在の批評家・東浩紀をキャラクターにした小説を書き、
後者がその合間合間に、キャラクターの東が記したという設定で
虚構的な文芸批評を挟んでいくというもの。
目的は批評のキャラクター小説化。」

「佐藤や桜庭の受賞劇が象徴する状況、つまり出身がラノベだろうが
ミステリだろうがSFだろうが要は「文学」になるためには
「私」の話を書かなければならない、というこの退屈な光景に
カウンターをあてることができるのではないか、と考えた。」

「「テクストの外はない」というデリダの有名な宣言は、
この国では裏返しで実現している。日本の文学にはむしろ
テクストの外部しかない。
以上の認識のうえで、ぼくたちはここであえて文芸誌の規則で
ゲームをしている。一種の私小説あるいは反私小説を記している。
だとすれば、この擬似小説では、たとえ嘘でもいいから、
作家のスキャンダルを演出しなければならない。」

ということで、キャラクター小説の形で反私小説を書き、
「純文学の脱構築」をめざしたもの、ということなのだが、
えーっと、なんていうか、できあがったものは「何これ」という感じ。
たぶん、この“小説”を純粋に楽しめるのは東ファンや文壇オタク(?)なのだが、
私は東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』『東京から考える』
鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』、『ウェブ社会の思想』は読んでいるけど、
この手の哲学的批評をおもしろいと思っているわけではないので、
(視点はおもしろいところもあるけど、何言ってるか基本的にわかんないし)
近代小説はほとんど読んでいないし、それをめぐる文壇のあれこれなんて
もっとどうでもいいわけで。

小説には、東浩紀や桜坂洋の私生活の一部、
桜庭一樹、佐藤友哉への複雑な想い、
そのほか、大塚英志、阿部和重、唐沢俊一、鈴木謙介、公文俊平、鈴木健、
柄谷行人、巽孝之ら実在の個人名が次々と登場し、何人かは小説の中で
悪口レベルの批判を受け、無残な死すら描かれているのだが、
それをもって“私小説”というなら内輪ウケ以上のものではないし、
途中で、東と桜坂が小説の進行についてもめて、
方向転換する場面が書かれていたり、
最初にめざした「批評のキャラクター小説化」は完全に失敗しているのだが、
その失敗すらも、「もしかしたらネタ?」という感じもあったりして。

川上未映子のブログで、東浩紀の小説に対する
宇野常寛のエッセイが紹介されていておもしろい。
『川上未映子の純粋悲性批判』日本文学再生会議
しかし、文学ってこんな頭でっかちなものなのか?


◆読書メモ

ただの人間には興味がない。
宇宙人、未来人、超能力者がいたらやって来い、と。
それは、一ライトノベルのキャラクターの言葉であると同時に
若者たちの気持ちでもあった。子供の頃は誰でも思ったはずだ。
机の引きだしや押し入れにドラえもんを、
箪笥に詰まった服の向こう側にナルニア国を。

そもそも、結婚し子供を儲けたということは、過去のある時点で
あるヒロインを選択済みということだ。人生はたった一度きりであり、
伝説の樹の下で幸せな結末を迎えたければ、
いまさら他の女の好感度を上げている場合ではない。

あらゆるひとが、文学はいまだに下北沢や西荻窪のような
猥雑な街で始まると考えている。

テクストは、書いた人間のそのときの意図とは異なって
読まれるものだ。野坂昭如だって『火垂るの墓』を書いたときは
〆切間際でどうしようもなかっただけと言っている。

小説には三つの層がある。「構造」と「内容」と「文体」だ。
ある内容が、ある構造に入れられて、
ある文章の形式のもとで書かれるのが小説だ。

しかし、近代小説とはそもそも、構造と文体を
(柄谷行人の隠喩を借りれば)「透明」にすることで、
読者が内容に焦点を合わせて読むことができるように作られた、
きわめて人工的な表現形式なのだ。

朝日は文壇と似ている。そして天皇と似ている。
だれもその権威を信じていないが、だれにも信じられないことで
その権威はゾンビのように生き延びる。
北大暁大はかつて『嗤う日本の「ナショナリズム」』で、
2ちゃんねらーは朝日を嗤い、貶め、否定するが、
まさにその行為によって朝日に依存していると分析した。
同じことが純文学とライトノベルにも言える。ライトノベル作家は、
あるいはその周囲に集う編集者は、純文学を嗤い、貶め、否定するが、
まさにその行為によって純文学に依存している。
そうやって、2ちゃんねるもライトノベルも、自分たちが信じないもの、
軽蔑しているものを延命させる。

単に笑わせるのであれば、泣かせるのであれば、それは作劇技術が
補填してくれる。人間の感情はスイッチみたいに押せるし、
言語や文化が違ってもその原始的なスイッチの位置が同じであることは
ハリウッドが証明している。

かつて二十三歳の新井素子が宣言したように、小説とは、
作家のためでも読者のためでもなく、
ましてや編集者や書店員のためでもなく、
なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、
可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」という
名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだということ、
そしてそれこそが、文学が人間に自由と寛容をもたらす
と言われていることの根拠なのだ。

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