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新宿シティハーフマラソン

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走ってきました!

練習不足や前日徹夜だったこともあり、
朝起きたときは、眠いよー、寒いよー、棄権しちゃおうかなー
という気分でしたが、ノロノロと準備。

スタートの国立競技場はハロウィンランの時も来ているので
会場の様子はだいたい把握している。
着替え終わって、スタンドでのんびり開会式を眺めていると
(アップとかしろよ)、「次は『大新宿区の歌』を生演奏でお送りします」と。
『大新宿区の歌』なんて初めて聞きましたよ。
「画面に歌詞が表示されるので、みなさんもどうぞ」と言われても。

10分前になってスタート地点へ移動。
今回は関門が4つあって、
私のキロ7分ペースでは制限時間ギリギリなので
余裕がなくて写真撮ってないです。
ので、人様のムービーですが、

ハーフの部は約5000人が出場ということでしたが、
スタートは意外にスムーズでロスタイムは2、3分。
国立競技場のトラックを走っていると、
なんだかすごく楽しくなってきて、あー、出場してよかったという気分に。
と思ったら、スタートしてすぐ狭い道で渋滞が発生。
時々歩かされるはめに。
最初の5キロはペースアップして時間を稼ぎたい私としてはちょっと焦る。

コースは国立競技場~信濃町~四谷三丁目~
新宿通りを四谷見附あたりで折り返し~御苑トンネル~
新宿タカシマヤ~代々木~千駄ヶ谷~国立競技場で1周、
一部折り返し地点が変わって外苑西通りを走ったりしながら2周、
国立競技場周辺をもう1周してゴール
なんですが、最初はA地点、次はB地点と微妙にコースが変わるので、
自分がいったいどこをどの程度のペースで走っているのかさっぱりわからない。
キロ表示欲しいです。関門ですらわかりにくいので結構あせったり。

楽しみにしていた御苑トンネルは、500mもあるので、意外にすぐ飽きる。
車でもそうだけど、あの黄色い灯りが距離感をなくして異次元を走ってる気分に。
早く外に出たいからなのか、なぜかみんなハイペース。

しかし、知っている場所を次々と走るのはおもしろい。
東京マラソンに出た人が「私のホームグランドを走ってる」と書いてたけど、
たしかにそんな感じ。
私は子供の頃を代々木、千駄ヶ谷で過ごしていて、
一時期会社が信濃町にあったりしたので、あー、この町で育ったんだなと。

そして、区間は限られるとはいえ、新宿を交通規制しているわけで
あちこちで「これいつまで続くの?」とムッとしているドライバーや
歩道を渡れなくて困っている人に遭遇。
コースが次々変わるということは誘導する側も大変だろうなと。
私が走れるのはみなさんのおかげです。

朝、寒かったせいか、お腹が冷えるウェアのせいか、
途中でお腹が痛くなって、トイレに行ったり(3分ロス)
練習不足がたたって、15km以降は足が棒だったり
とアクシデントはありましたが、なんとか無事ゴール。
制限時間2時間30分に対し、2時間25分とギリギリセーフでした。
(私にしては十分、よくできましたタイムなんだけどね。)

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参加賞はリュック。いつもTシャツだからこういうのも良いね。
帰り道にさっそく利用しているランナー多数。

で、体がロボット状態だったので、そのまままっすぐ帰宅。
帰るとすぐにぐーぐ寝ていたわけですが、
夜になって起き出して、ご飯を食べて、さらにシナモンロールをパクつく。
「レースの後のビールがおいしいから走ってる」という声をよく聞きますが、
私もこの満足感のために走ってるんじゃないかと、
シナモンロールを食べながら思いました。

駅弁大会

今年も始まりました、京王の駅弁大会!
いつも気がつくと始まっているので、今回はカレンダーにメモする念の入れよう。
前日にK嬢に「明日からだよ」と声をかけると、
「チラシはもうゲットしました!」という返事。
しかもチラシのあちこちに丸印がついてたよ。

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ぶりかまめし (富山県 氷見線/氷見駅)
ちょっと濃い目の味付けだけど、ぶりがうまい。
「ますのすし」と同じお店の弁当なので、魚さばきは得意なのか。

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あじ寿司 (静岡県 伊豆箱根鉄道 駿豆線/修善寺駅)
こちらも素材のよさが味わえるうまさ。

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鹿児島黒豚赤ワインステーキ弁当 (鹿児島県 鹿児島本線/出水駅)
黒豚ももちろんだけど、サフランライスとかリンゴのコンポートも気がきいている。

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抹茶ひつまぶし日本一弁当 (愛知県 東海道本線/名古屋駅)
やたら「日本一」を強調したフタに笑った。
ちゃんとタレだけじゃなくてワサビや抹茶の袋もついてます。

今年は整理券制度がうまくいっているのか、
ばかみたいな行列がほとんどなく、
わりとスムーズにお目当ての弁当を制覇しています。
お弁当食べながら、グーグルマップで駅の場所をチェックすると、
「こんな遠いところなんだー」と似非旅気分が味わえます。

本『カレーライスと日本人』

カレーライスと日本人 (講談社現代新書)

『カレーライスと日本人』
著 森枝卓士
講談社現代新書

インドにはカレーライスという料理は存在しない、
というのはよく知られた話。
じゃあ、何をさしてカレーというのか、インドをめぐるカレー研究から始まり、
カレー粉が誕生したイギリスのC&Bへ飛び、
イギリス経由でカレーが入ってきた大正、明治の日本の歴史を追いかけ、
なぜ、かくも日本人はカレーが大好きなのかを検証する。

初版は1989年。なので、今とは多少事情が変わっていて、
「インディカ米はカレーによく合うが日本では輸入できない」
なんていう記述もある。
私が子供の頃はカレーといえば、ハウスバーモンドカレーだったけど、
今では、会社の目の前の店で本格的なインドカレーが食べれたり、
ナンもグリーンカレーもタイ式カレーもずいぶん一般的になった。

インドからイギリスに伝わり、イギリスでカレー粉が生まれ、
日本でカレールウが生まれ、ジャガイモ、タマネギ、ニンジンが入る
という日本のカレーライス誕生物語にはワクワクする。

インドではライスではなくチャパティをカレーの主食とする地域もあるが、
イギリスが最初に植民地としたのがベンガル地方で、
ベンガルは米が主食だったので、ライス式のカレーがイギリスに伝わったとか、
最初に日本に伝えられたレシピでは、肉は羊や牛、鳥、またはカエル!で
野菜は葱、リンゴだけだったとか、(「リンゴが入っているのが
バーモンドカレーの専売特許でなかったことが妙におかしい」と著者は書いている)
ジャガイモ、タマネギ、ニンジンは明治に入ってきた「西洋野菜」で、
普及につれて、シチューとの合体でカレーの素材になったとか、
大量に作れて、ひと皿で飯もおかずもすむカレーは軍隊で重宝され、
軍でカレーの味と作り方を覚えた青年たちが農村に広めたという説や、
輸入品のC&Bのカレー粉を増量材で水増ししようという研究から、
国産のS&B印カレー粉が生まれたとか、おもしろいコネタが満載。

伝統的な日本料理だと思われている、
テンプラ、寿司、味噌、醤油も外国から入ってきたもので、
その受容性の高さこそが日本料理なんだなーとか、
実は東インド会社って歴史的にすごく重要かもとか、
歴史やら文化やらいろいろ経由してカレーライスが誕生した
と思うと、奥の深さにびっくりしたり、なかなかの名著だと思います。


◆読書メモ

現在のカレーの辛さの主成分である唐辛子がアメリカ大陸原産で、
おそらくこの大航海時代の交易でおとずれたヨーロッパ人によって
もたらされたからである。
インド料理でおなじみの材料、トマト、ジャガイモもアメリカ大陸原産である。
だから、カレーが現在のような形になっていくのにも、
大航海時代のヨーロッパが貢献していることになる。あの時代に、
あのようなかたちでヨーロッパとアジアのかかわりが持たれなければ、
いまのようなカレーにはならなかっただろうし、当然ながらイギリスを経由して
日本に紹介されることもなかっただろう。

同じように、同じ時期に日本に紹介されて、ものによっては受け入れられ、
ものによっては広まらなかったというごく当たり前の選択がおこなわれたのだろうが、
さも真新しいもののように、最近の女性誌で紹介されたりするアーティチョークなどが、
実はこんなに昔から入っていたということに妙なおかしさを感じる。

テンプラは安土桃山時代にポルトガルから入ってきた料理である。
テンプラということば自体、調理を意味するポルトガル語、temporeが
なまったものだ、などの説がある。もともと、日本料理には揚げ物はなかった。
寿司もルーツをたどると、中国の雲南省から、ビルマ、タイあたりにかけての
山岳部で、魚をご飯と一緒に漬け込んだ馴れ寿司にまで行きつくらしい。
味噌、醤油のような基本的な調味料も、やはり中国から入ってきて、
日本式に変化していったものだ。

「肉食の復活と、洋食という新しいシステムの出現に対して、
プロの日本料理人たちはそれを取り入れて伝統的な日本料理のシステムを
再構築することをしなかった。幕末の時期におけるシステムをそのまま固定化し、
みずからを化石化することによって、
伝統的なシステムをまもる方向にむかったのである。
以後、カレーライスやコロッケなどをとりこんでいく家庭の食事のシステムと
伝統的素材と技術にこだわる日本料理専門店との差が著しくなっていく。」
『外来の食の文化』

石毛直道は、植民地となったことがない日本人は、
特定の国家や民族に限定されたモデルをもたない欧米像を作り上げた
とも指摘している。植民地であった国は影響をストレートに受けているし、
明確な西洋のイメージも持っている。
日本国内でなら戦前のホテルや高級レストラン、現在のフランス料理店などは
フランス料理という明確なモデルを持っている。
対して、「洋食」の場合は、日本人が漠然とイメージした西洋一般であり、
日本で再編成された外来風の食事システムとなるという。

大正十二年の大震災は酷い被害をもたらしたし、古い秩序や価値観を
一新させてもいる。江戸時代からずっと畳敷きだったそば屋が、
いまみたいな椅子のスタイルに変わっていくのも
震災以後の建て直しのときからだった。そして、外見が変わるのと一緒に
メニューでも新しいものを受け入れている。カツ丼、ライスカレーなどが
登場するのもこのころからなのである。

もう一つの流れが東京、新宿の中村屋のカレーにはじまるインド式カレーである。
中村屋の創業者、相馬愛蔵はインドから亡命してきた独立運動のメンバー、
ラス・ビバリ・ボースを助ける。ボースはやがて相馬の娘と結婚して、
昭和二年に中村屋が喫茶部を設けたさいには、彼の協力でインド式カレーが
メニューに加えられることになる。これが、「本物のインド式カレー」ということで
大好評をはくし、中村屋の名物になっていく。
そして、そこからインド式カレーも根付いていき、
とくに戦後、数多くのインド料理屋が繁盛するという方向に結実する。
さらにこの流れは「エスニック」という東南アジアをはじめとする、
それまで知られていなかった味の世界が親しまれ、
ブームになっていく下地をつくる。

本『日の名残り』

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

『日の名残り』
著 カズオ イシグロ
ハヤカワepi文庫

ねーさんから借りていたのに1年以上読めずにいた本。
ゆっくり落ち着いて読みたかったからなんだけど、
結局、実家から戻る電車の中で一気読みしてしまいました。

「何をお読みになっているのかしら、ミスター・スティーブンス?」
「ただの本です、ミス・ケントン」
「そんなことは見ればわかります、ミスター・スティーブンス。
何のご本ですの? とても興味がありますわ」
「これはどういうことです、ミス・ケントン。
私のプライバシーを尊重していただくよう、お願いせねばなりませんな」
「でも、なぜそんなに隠されますの、ミスター・スティーブンス?」

いちいち、ミスター・スティーブンス、ミス・ケントンと
呼びかけるふたりの会話がもどかしくも素敵。
これはふたりの礼儀であり、距離であり、親しさなのだ。

人生には確かに大事な一瞬がある。
そのときどうするかで、その後の運命が変わってしまう。
でも、そのときはそんなこと考えずに選んでいるのだ。

丸谷才一の解説はこの物語を悲劇だという。
だけど、私にはそう思えない。
ミスター・スティーブンスは自分の人生をふりかえって
深く後悔しているかもしれないけれど、
その人生はなんて美しいのだろう。


「品格」という言葉は、一時期、使われすぎて、
すっかり安っぽくなってしまったけど、
原書をチェックしたら「dignity」。
英語としても、難しい単語なのでは。


イギリスの地図を一生懸命たどっていたら、
"The Remains of the Day" Route
という公開マップがありました。結構長旅。


◆読書メモ

あのとき、もしああでなかったら、結果はどうなっていただろう……。
そんなことはいくら考えても切りがありますまい。
「転機」とは、たしかにあるのかもしれません。
しかし、振り返ってみて初めて、それとわかるもののようでもあります。
いま思い返してみれば、あの瞬間もこの瞬間も、
たしかに人生を決定づける重大な一瞬だったように見えます。
しかし、当時はそんなこととはつゆ思わなかったのです。
ミス・ケントンとの関係に多少の混乱が生じても、私にはその混乱を
整理していける無限の時間があるような気がしておりました。
何日でも、何ヵ月でも、何年でも……。
あの誤解もこの誤解もありました。
しかし、私にはそれを訂正していける無限の機会があるような
気がしておりました。一見つまらないあれこれの出来事のために、
夢全体が永遠に取返しのつかないものになってしまうなどと、
当時、私は何によって知ることができたでしょうか。

本『アップルを創った怪物』

アップルを創った怪物―もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝
『アップルを創った怪物
 もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝』
著 スティーブ・ウォズニアック
ダイヤモンド社

スティーブ・ジョブズとともにアップルを創業したウォズこと
ウォズニアックの自伝。
自伝といっても、ライターがインタビューをまとめたもので、
原著のクレジットは「by Steve Wozniak with Gina Smith」となっている。
そのため、基本的にはウォズの思い出話や自慢話であり、
少なからずあったであろうアップルやジョブズへの不満も
「傷ついたけど、気にしてないよ」程度にしか語られていない。
(もちろんウォズの人柄の良さってのもあるだろうけど。
HP社について「いや~いいところだったよ」と語ったり、
アップル株で億万長者になった後は、
コンサートや教育などにお金をつぎ込んじゃったり。)

ウォズが最初に考えたというキーボードとテレビのインターフェース、
コモドールのPETやラジオシャックのTRS-80、アルテアよりも
「僕の作った」アップルの方がだんぜんすごかった、
という話なんかも割り引いて聞く必要があるだろう。

それでも『アップルI』誕生や
ブルーボックス(電話のタダがけ装置)の制作、
ジョブズが謝礼金をピンはねした『ブレイクアウト』(ブロック崩し)、
社員に株を与えた“ウォズ・プラン”、飛行機事故、
野外コンサート、アップル退社など、
今まで伝説だったエピソードが本人の口から語られたのは意義がある。

原題は『iWoz』。
『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(原題『iCon』)とあわせて読むと
2人の創業者の違いがよくわかる。
プロデューサーとしてのジョブズと、あくまでエンジニアだったウォズ。
鏡のような2人がいて初めてアップルは誕生できたのだ。
最終章「人生の法則」のメッセージなんて、
ジョブズがスタンフォード大学で言っていたことによく似ている。
これはどちらかが真似したわけではなく、
若い頃お互いにそういう話をしていたか、
2人とも同じものをめざしていたからなのではないか。

◆読書メモ

おやじは、エンジニアであるとはどういうことかを僕にたたき込んだ。
エンジニアの中のエンジニア、真のエンジニアであるとは、だ。
今でもはっきり思い出せる。
エンジニアリングとは世界でもっとも重要なことだっておやじは言っていた。
人々の役に立つ電子機器を作れる人は社会を一歩前に進められる人だと。
エンジニアなら世界を変えられる、多くの、本当に多くの人々の生活を
変えられるって、教えてくれた。

その2年後、アリスと僕は結婚した。でも、その結婚生活は、
僕がHP社を辞めた少しあとに終わってしまった。
それって悲しくもおかしな符号だ。
だって、どっちも永遠に続くと僕は思ってたんだから。

スティーブと僕は、長い間、ホントに長い間、
互いに最高の友だちとして過ごした。同じ目標に向かって
一緒に努力した。それが結実したのがアップルだ。
でも、僕らは違うタイプの人間だった。最初からずっとね。

スティーブはあちこち電話すると、まるで奇跡だよね。
インテルからタダでDRAMをいくつかもらう話をつけてしまった。
あのころの値段とめちゃくちゃ品薄だったことを考えれば、
信じられないような話だ。それをやっちゃうのがスティーブって男なんだけど。
販売責任者との話がうまいんだ。僕にはアレはできない。内気すぎてね。

でも、スティーブから魅力的なことを提案された。
あのとき、僕らはスティーブの車に乗っていた。そして、
こう言われたことを、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えている。
「お金は損するかもしれないけど、自分の会社が持てるよ。
自分の会社が持てる一生に一度のチャンスだ」

まず、自分を信じること。迷っちゃダメだ。
世の中、それこそ大半の人、出会う人全員といってもいいほど
多くの人が、白か黒かという考え方しかできない。
こういう人たちに足を引っぱられちゃダメだ。みんな、そのとき
常識とされている見方しかしないってことを忘れちゃいけない。
過去に触れたり見たりしたものしか理解できないんだ。
これは先入観とか偏見とも言えるもの。
発明というものと決定的に対立する偏見なんだ。
世界は白黒なんかじゃない。
白と黒の間にさまざまな濃さのグレーがあるんだ。
「発明家なら、グレースケールで物事を見なきゃいけない。」

本『あなたのTシャツはどこから来たのか?』

あなたのTシャツはどこから来たのか?―誰も書かなかったグローバリゼーションの真実
『あなたのTシャツはどこから来たのか?
誰も書かなかったグローバリゼーションの真実』

著 ピエトラ・ リボリ
東洋経済新報社

私が買っている安いTシャツは、
発展途上国で搾取された人々が作ってるんだよ
という本かと思っていたら、そんな単純な話ではなかった。

「あなたのTシャツは誰が作ったものですか?」
という女子学生の言葉に動かされ、
経済学部の教授である著者は、Tシャツをめぐる旅に出る。
著者がフロリダで買った5ドル99セントのTシャツは、
予想通りMade in Chinaであり、裁断、縫製は中国で行なわれていたが、
原料である綿はアメリカ、テキサス産だった。

アメリカは200年もの間、綿生産、世界一に君臨した。
それは、奴隷制度やプランテーションやメキシコからの安い労働力であり、
官民一体となった技術革新であり、(発展途上国では綿は手摘みされているが、
テキサスではすべて機械化されている)、政府の補助金であり、
なによりも政治的な保護政策によって守られているためである。

テキサス産の綿は中国に渡り、糸になり、布になり、裁断され、縫製される。
中国の工場を取材した著者は、そこが単なる“搾取工場”ではなく、
農村を脱出した女性たちの働く場所であり、
かつての日本、台湾、韓国も“女工哀史”による繊維産業をステップに
発展を遂げてきたのだと語る。

自由市場を説くアメリカが、Tシャツ(繊維産業)においては
どれだけ保護主義だったか、経済市場がどれだけ政治に支配されているか
という話は、この本の中心テーマであるが、
原書が発売されたのが2005年で、日本語版が2007年なので、
現在ではだいぶ状況が変わっているだろうと思われる。
(2005年に多国間繊維取極(MFA)が廃止され、
発展途上国からのアパレル輸入の数量制限が撤廃された。
その後、延長された輸入制限も2008年には切れているはずである。)

中国で作られたTシャツはアメリカに輸入され販売される。
さらに不用品として慈善団体に送られたTシャツは
古着としてアフリカで売られる。
古着ビジネスについては、善意によって無料で提供された衣類が
発展途上国の繊維産業をつぶしているという批判も多いが、
(以前読んだ『世界から貧しさをなくす30の方法』
って本にもその話がでてきました。)
著者は、タンザニアの古着ビジネスが、政治的な保護政策とは無縁に、
自由市場を形成していることを賞賛する。

アメリカ→中国→アメリカ→タンザニアとTシャツを追うことで、
イギリスの産業革命からアメリカの保護政策、
日本や中国における女工たちの歴史、
自由市場という名の下に行なわれる輸入制限、
発展途上国の古着ビジネスまで、
わかりやすい経済の物語として描いてみせる手腕はみごと。
ただ、わかりやすいからといって書いてあることを
すべて鵜呑みにするわけにはいかず、
著者が最後に女子大生に語るように
物事の両面に目を向けないといけないなと。

◆読書メモ

一人の若い女性がマイクを手に取ると、群衆に向かって問いかけた。
「あなたのTシャツは誰が作ったものですか。
食べ物も飲み物も与えられずにミシンにつながれた
ベトナムの子供でしょうか。時給18セントしかもらえず、
1日に2度しかトイレに行かせてもらえないインドの女性でしょうか。
皆さん知っていますか。彼女は十二人部屋で生活しているのです。
ベッドは共寝、食事にはお粥しかもらえません。
残業手当も受け取れずに、週に90時間働かされます。
発言する権利もなければ、労働組合を作る権利もありません。
彼女は貧乏なだけでなく、不潔で病気が蔓延する環境で
暮らしているのです。すべてはナイキの利益のために。」
わたしはこれらのことを知らなかった。そして不思議に思った。
マイクを持つあの女子学生は、なぜ知っていたのだろうか。

国籍も、経歴も、対象とする地域も時代も全く異にする研究者たちが、
繊維業における理想的な労働者を表す時に異口同音に口にするのは、
例の「従順な」という形容詞だ。そして、ランカシャーでも
マサチューセッツでも、サウスカロライナ、日本、台湾、香港でも、
その従順さは、労働者に選択肢がなく、経験もなく、
視野も狭いことからくるものだった。

1990年代末、ピュリッツァー賞を受賞したニューヨークタイムズの
ニコラス・クリストフ記者とシェリル・ウーダン記者は、
ゴミ拾いや買春をするアジア人、あるいは職を持たない
貧しいアジア人を取材した。彼らの多くにとって搾取工場で働くことは、
自分には無理でも子供には叶えてほしい夢だった、という。

繊維・衣料品メーカーは海外生産拠点を選ぶのに、
そこが経営上ふさわしいかどうかではなく、
その国に輸入割当があるかどうかを優先してきた。
世界最大の綿シャツメーカーであるエスケル・コーポレーションは、
1970年代後半に香港で創業した。
しかし、輸入割当を獲得できなかったため、生産拠点を中国本土へと移した。
1980年代のはじめに米国が中国製シャツの輸入割当抑制に動いた時、
エスケルは生産拠点をマレーシアへ移した。
ところがマレーシアの輸入割当も厳しくなり、次にスリランカへ移動した。
さらにモーリシャスやモルジブにも拠点を設立し、世界中を飛び回り続けた。

日本の若者たちは、リーバイスやナイキなどのブランドを好む。
このブランドのジーンズやスニーカーであれば、
東京では何千ドルという高値で売れる。
日本人はディズニーも好きだから、完璧な状態のミッキーマウスの
Tシャツであれば、ちょっとした模様つきTシャツの10倍の値段で売れる。
その貪欲な「アメリカもの」への需要のお陰で、
米国古着の最大の顧客は日本人である。
ただ、彼らのビンテージへのニーズは最高級かつ珍しい品目に限られるため、
取引金額では日本が最大の顧客であっても、
彼らが実際に引き受ける米国古着の量はほんのわずかしかない。

ミトゥンバとは、アメリカ人やヨーロッパ人が捨てた洋服のことで、
なかでもTシャツが多い。ニエレレ大統領がこれを見たら
驚いて墓から飛び出してくるだろう。なぜなら、西側の古着は、
祖国の誇りのために進めた「自立ある社会主義」政策下で、
第一級の輸入禁止品目だったからだ。

グラムたちは、この屈辱論には我慢がならない、と言う。
彼らは何度も繰り返し、「屈辱感はミトゥンバから生まれるんじゃない、
何も着るものがないというところから生まれるんだ」と語った。


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