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本『キャラクターメーカー』

キャラクターメーカー―6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」 (アスキー新書)

『キャラクターメーカー 6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』
著 大塚英志
アスキー新書

『映画式まんが入門』がおもしろかったので、シリーズ1作目である
『キャラクターメーカー』を読んでみた。

「キャラクター」とは「属性」の組み合わせであり、
ダイスを振って、順列組み合わせでキャラクターをつくるとか、
「聖痕」つきのキャラクターをつくる、というワークショップがおもしろい。
実際にこのワークショップに取り組んだ学生が考えたという
キャラクターには、十分に「物語」が含まれている。
ダイスを振ってキャラクターをつくることが、結果的には
どうやって「私」を「物語」として描くか、ということになっているのだ。

ワークショップの前に「キャラクター記号説」とか
「ファミリー・ロマンス」とか、「物語の構造論」など
理屈っぽい話が続くのだが、難解ではあるものの、
大学でやった比較文学論が大好きだった私としては、ここがめっぽうおもしろい。
聖書やギリシア神話、グリム童話などをひと通り読んでおくと、
ハリウッド映画やヨーロッパ文学の基本パターンが見えてくる。
(といいつつ、どれもちゃんと読んでないままですが。)

小説を書くことに興味がなくても、
物語論入門として非常によくできている。

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本『ワインと外交』

ワインと外交 (新潮新書)

『ワインと外交』
著 西川恵
新潮新書

各国の首脳をもてなすために行なわれる饗宴。
そのメニューをとおして国際関係を読み解くという非常におもしろい本。

たとえば、2005年2月、ベルギーの米大使公邸で
ブッシュ大統領とフランスのシラク大統領の夕食会が開催され、
付け合せにポテトのフレンチフライが出された。
フレンチフライは「イラク戦争直前、フランスに反発した米国が
「自由(フリーダム)フライ」と言い換えたもので、
ブッシュ大統領は「これはフレンチフライだ」と笑いながら口に運んだ。」
つまり、フレンチフライを出すことでアメリカとフランスの和解を象徴している。

また、2004年6月、ノルマンディー上陸作戦60周年を記念して行なわれた
式典の昼食会。ワインはシャトー・クリマン89年、シャトー・ラトゥール89年。
「興味深いのは白、赤とも89年のヴィンテージで揃えたこと。
エリゼ宮のソムリエは「ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結して
新しい世界が誕生した区切りの年にしました」と語る。」

歓迎レベルで品数が変わったり、
もてなす国の食材や関連のあるワインが出されたり、
たんに豪華な食事だと思っていたものが、
実は深い計算にもとづいたメニューだとわかる。

そのほか、天皇が外交に果たした役割や、
旧日本軍によってインドネシアでオランダの兵士や民間人が
抑留された過去をもつ、オランダのベアトリックス女王が、
いかに時間をかけて天皇のオランダ訪問を実現させたかという話が印象的。
ベアトリックス女王は戦争被害者の団体取りまとめ役であったハウザー氏に、
天皇が戦没者慰霊塔を訪れる際の随従役を頼んでいる。
「ハウザー氏が振り返る。
「両陛下はまず一礼した後、慰霊塔に歩を進められた。そして花を置かれ、
深く黙祷された。かつて私は強制収容所で、日本の方に向かって皇居遥拝を
毎朝やらされていた。その天皇がオランダ人犠牲者に真摯に黙祷を捧げられている。
私には忘れられない光景だった。」」

外交とはかくも緻密な努力と知性で成り立っているのかと感心する。
『アマルフィ 女神の報酬』などでも外交官の活躍は描かれているが、
たいていは爆弾テロや誘拐事件など。(『アマルフィ』にも首相の奥さんの好みとか
オペラにどう招くかとかの打ち合わせシーンはありますけどね)
むしろ、席順をどうするか、ワインの銘柄は、観光で回るルートは、
といった地味な場面でも、物語になるんじゃないかと、この本を読んで思った。


◆読書メモ

午餐会がもたれた日の朝、ハタミ大統領は東京工業大学で
「日本の詩とイランの神秘主義」のタイトルで興味深い講演を行っている。
「アリストテレスの哲学は、人間を『話す合理的な動物』と定義づけましたが、
イスラム神秘主義や禅は沈黙の卓越性と優越性を説いています」
「自分たちの固有の文化と思想の泉を探究することによって、
テクノロジーの浸透の中でもアイデンティティーを喪失することはないのです」
哲学的、思索的表現を繰り出しながら、ハタミ大統領は
言葉に絶対的な信を置く西洋に対して、日本の禅やイランの神秘主義は、
沈黙から多様な示唆と寓意を汲み取ること、相手の言うことにまず耳を傾けることが
対話の始まりであり、相手の立場を重んじるのは東洋・アジアの風土であること、
またグローバリズムにあっては、それぞれ固有文化を尊重することが
大事であることなどを説いた。
これは欧米の価値秩序に対するアジアからの価値秩序構築の提唱であり、
共通の文化的土壌をもつ日本とイランの戦略的提携こそが枢要であるとの呼びかけだった。


本『イマココ』

イマココ――渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学

『イマココ 渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』

著 コリン・エラード
早川書房

動物と人間のナビゲーション能力について研究した本。

アリはエサを探して半径200メートルの範囲をランダムに進むが、
エサを持って帰るときは、まっすぐ巣までの直線コースを帰る。
つまり、アリは自分が今どこにいるかつねに把握している。
(アリの移動距離を人間に換算すると約36キロになり、
この距離をアリは正確に把握している。アリすげー。)
伝書バトは磁場を感じ取り、方角を見極めている。

人間はこのような方向を認識する能力は弱いが、
ほかの動物とはちがった方法で空間を認識している。
抽象的な空間を理論的に把握することは得意だという。

この人間の空間認識能力をもとに、居心地のいい家のレイアウトや、
より買い物をするショッピングモール、都市空間などが研究されている。

私的にショックだったのは、ル・コルビュジエ的都市空間は、
パリの郊外などに、貧しい人々が隔絶された危険な区域をつくり、
「米国で低所得者向けに、モダニズムの原則にそって建てられた
低コストの公団住宅は、空間の利用法をまちがえると
社会的なネットワークが崩壊することを実証している」という話だ。
都市空間については、またいろいろと調べてみたい。

動物と人間のナビゲーション能力から、人間の空間認知能力、
住環境、都市空間、ワークスペース、サイバースペース、
そして自然環境へと、話が広がりすぎて、
結局、何がいいたかったのかいまひとつわかりにくい本ではありますが、
アリがすごい、ということだけでも読むとおもしろいです。


◆読書メモ

イヌイットはその土地で生き残るため、細かいところまで注意して見る能力が
必要だったせいか、それが言語にも自然に入り込んでいる。
イヌイット語には位置を示す言葉が必ず含まれている。
イヌイット語の三語文を英語に翻訳すると「この細長い物を、私が指している
あの細長いものの端に交差するように置いてください」という20語もの文になる。

体の向きについて話すとき、ほとんどの文化圏で
「前」と「うしろ」をはっきり区別している。
「右」と「左」にも、文化によってさまざまな意味が含まれることが知られている。
大半の文化では、左より右のほうが格が上ということになっている。
私たちは右手で握手をし、食事に道具を使わない土地では、右手で料理を取る。
頼りになる補佐役は「右腕」だ。
英語の科学文献ではいまだ左手をsinistral handと書く。
これは現在のsinister(不吉な・邪悪なという意味)の語源となった言葉で、
もともとは左利きを意味していた。
しかし、おもしろいことにアジア文化では左のほうが格が高い。
アジアでは基本方位が南なので(たとえば紫禁城の正門は南向きだ)
左が日の昇る側となり、特別な意味合いを与えられているのだ。

人間は複雑性と対称性の高い空間をもっとも心地よいと感じ、
開放的で対称性の高い空間をもっとも美しいと感じ、
開放的で複雑な空間をもっともおもしろいと感じるのだ。

ウィニフレッド・ギャラハーは、住宅の設計の進化に関する
著書『ハウス・シンキング』で、成功している建築家の中には、
眺望と隠れ場の影響を感じる直観力にすぐれた者がいると書いている。
たとえば建築家のフランク・ロイド・ライトは、天井を低くしたアルコープ
〔壁の一部を引っ込ませてつくった空間〕を好んだが、
とくに暖炉のそばの居心地のよい場所につくるのが好きだった。
生存という原始的本能の観点から言うと、暖炉のそばの安全な場所こそが、
家の他の部分を見渡せる典型的な隠れ場と考えられる。

文化が家の建てかたに影響を与えているよい例としてもうひとつあげられるのが、
とりわけイスラム教国で広くつくられている、中庭を囲むコートハウスだ。
この方式で家をつくると、住人のプライバシーを守れると同時に、
家族の男女別、世代別の建物をひとつの家に建てられるという利点がある。
親戚同士がひとつの家に暮す場合でも、この方式なら、
共有の空間では外部の目を気にせず過ごすことができる。
また建物を分けることで、男女や世代間の身体的な接触を避けることもできる。

もうひとつの例として、北京の有名な胡同(フートン)と呼ばれる路地に見られる、
中庭つきの家をあげておこう。外から見ると家を囲む塀は平凡なレンガづくりで、
扉も質素なものだ。だが塀の中には美しく造園された中庭があり、
中庭を囲んで大家族の居場所ごとに、つくりのちがう建物が建っている。

フードコートは客をなるべく長居させないような設計になっている。
そうした場所はとても開けたつくりになっているのが一般的だ。
壁で囲まれた落ち着ける場所をつくらないよう、
座席のまわりは幅の広い通路が取り囲み、食事が出てくるサービスカウンターに
客が向かいやすいようになっている。またフードコートは明るい照明に照らされ、
明かり採りの窓があったり、天井が高くなったりしている。
そしてテーブルは三人以上のグループで食事がしにくいよう配置されている。
そうした工夫によって、人はちょうど、郊外のマックマンション(労働力、資力節約型で
大量生産される、周辺の環境に不釣合いな大邸宅)にある、
大げさな玄関ホールの真ん中で食事をしているような気分になる。
さっさと金を払って食べ物をかきこみ、買い物という戦いの場へ戻りたくなるのだ。

シスコシステムズとヒューレット・パッカードの両社は、この開放型オフィスを採用した。
社員はできるだけ家(またはスターバックス)で仕事をすることを奨励される。
会社に行く必要ができたときには、その仕事を求められた場所へ行けばいい。
この二社によると、社員同士の交流が増え、また、オフィスが小さくてすむため
経済的利益も増すという利点があったという。

しかし各社員が仕事場を持たない開放型が、必ずしもキュービクル方式の問題点を
解決するとはかぎらない。開放型のオフィスの失敗例として有名なのが、
ロサンゼルスとニューヨークにオフィスを構える広告代理店のシャイアットデイ社だ。
同社では、社員同士が協力しやすくなるようにと、個人用の仕事場をなくし、
社員には仕事の内容に応じて社内の好きな場所で仕事をするように促した。
その結果、当初の目的のひとつだった社員同士の交流は確かに増えた。
しかし一方で社員からは、プライバシーが保てない、集中できない、
人を探すのに時間がかかるという苦情も出た。結局、シャイアットデイ社は
オフィスをもとの形態に戻している。

空間と光と秩序。
これらはパンや寝るための場所と同じくらい、人間にとって必要不可欠なものだ。
ル・コルビュジエ

都市空間は、建物の中の空間と同じで私たちの行動に影響を与えるが、
それにはおもにふたつの道筋がある。第一に空間の構造と外見は、
私たちがどう感じるかに直接的かつ大きな影響をもたらす。
第二に都市空間の構造は、私たちがどう動くか、どこへ行くか、
どのくらい多くの人が都会の大小の道路のモザイクの中で動き回るか
などに影響を与えることがある。

『アメリカの大都市の死と生』
ジェイン・ジェイコブズ

ジェイコブズの主張の中心をなすのは、「人(ライフ)が人(ライフ)を引き寄せる」
という言葉である。都市の活気を保つには、人がたくさん集まる公共の場所が
数多く必要だ。これは一部には、そうした公共の場所、とくに歩道は、
仕事、娯楽、休養の機会を提供するものでなくてはならないということである。
歩道はじゅうぶんに広くとって、目的地へ向かう歩行者だけでなく、
ただぶらぶらしている人も受け入れなくてはならない。
一区画(ブロック)の距離は短く、歩行者がブロックからブロックへと
簡単に移動できるようにするべきだ。
こうした性質がまとまると人の流れが生まれ、「通りを見ている目」が増える。
部分的に共通する目的を持つ他人同士が集まることで、公共の場所を
他人と共有しているという感覚が生じる。だれもが空間の価値を理解していれば、
だれもがその全体性と、それを維持している行動基準を守る。
この信頼と理解という有機的なネットワークがあるからこそ、
通りは家庭の中と同じくらい安全な場所になる。

『都市のイメージ』
ケヴィン・リンチ

『ロンドン-バイオグラフィー』
ピーター・アクロイド

1993年、24基の人工衛星からなるナブスター「全地球位置把握システム(GPS)」
の配置により、地上にある電子機器を使って、
現在位置を数メートルの誤差で割り出せるようになった。
このシステムが推進された理由のひとつが軍事利用であったため、
フル稼働する前の数年間は一般市民向けのGPS信号にはわざとエラーを組み込んで、
誤差30メートル程度まで精度を下げていた。
事情を変えたのは1991年の湾岸戦争だ。軍事用のGPS機器が不足したため、
より広く使われていたGPS受信機(おもに船舶や狩猟に使われるレベル)を
戦場でも使えるようにエラーが取り除かれたのだ。
そのときからエラーは作動されないままになり、GPS信号が航空機と船舶の
ナビゲーションを支える主力となった。軍はGPS信号を遮断する技術を持っているが、
もしそんなことをしたら大惨事を引き起こしかねない。

バーチャル環境における行動をもっと注意深く観察した研究によると、
人はデジタル空間でも、現実の空間にいるときと同じようなパターンで、
動いたり止まったりする。そのため実際の建物や都市の中で人の動きを
予測するのに都合のいいスペース・シンタックスの原則が、バーチャル空間にも
適用できると考えられる。何よりおもしろいのは、角度や距離を無視するために
自分が今いる位置がわからなくなってしまうという人間の性質が、
バーチャル空間でも当てはまるということだ。

現在、私たちがGPSやジオ・コード・データに惹かれるのは、私たちの生活において
「どこ」が重要であることを、心のうちで感じているからだと思われる。
グーグルの最高技術責任者であり、
グーグル・アースなどの地理空間アプリケーションの
開発者であるマイケル・ジョーンズは次のように述べている。
こうした地理的データに基ずくアプリケーションに
惹きつけられる何千万ものユーザーは、
最初は遊びや、知らない場所を見たいという気持ちで使っているが、最終的には
自分たちと世界中の本当の場所とのつながりを知り、引き出すために使うのだと。

本『ヤフー・トピックスの作り方』

ヤフー・トピックスの作り方 (光文社新書)

『ヤフー・トピックスの作り方』
著 奥村倫弘
光文社新書

ニュースを選び、13文字の見出しをつけ、関連リンクを貼り、
硬軟のバランスを考えて8本を並べる、
ヤフー・トピックス編集部が語る“ニュースの作り方”。

へーっと思ったのは、同じニュースでもどの記事にリンクを貼るか、
関連サイトは何を選ぶか、そういった作業を“編集”と考えているところ。
月間45億ページビューという影響力をわかっているからこそ、
どのニュースを選び、どう提示するか、ということに力を注ぐ。
ヤフー・トピックス編集部の多くが新聞記者や編集の経験者だそうだ。

この本でおもしろいのは後半の「コソボは独立しなかった」問題。
スポーツや芸能ニュースにばかり注目が集まり、社会的ニュースは読まれない。
ヤフー・トピックスでは、アクセス数がリアルタイムにわかるが、
だからこそ、アクセス数だけでニュースの価値を決めることはできない。
琉球新報が9段抜きの見出しで伝えようとした温度感をトピックスはもたない。
そもそも、読者に対して「これが読むべきニュースですよ」と
新聞が上からメッセージを送ることはもうできないのかもしれない。

ネットで誰もが発信できる時代、今まではニュースにならなかったような
新製品情報やネットの話題もニュースとして取り上げられる。
取材をしないニュースは信頼や事実という価値を保てるのか。

書いている著者が元新聞記者ということもあり、
やや「ニュースの価値とは」が高尚な視点になっている感じもしますが、
ネット時代のニュースとはどうあるべきなのか、
わりと重要なポイントをいくつもついています。

本『映画式まんが入門』

映画式まんが家入門 (アスキー新書 152)
『映画式まんが家入門』
著 大塚英志
アスキー新書

日本のまんが表現はなぜ「エイゼンシュテインみたい」なのか
というところから始まって、日本のまんがにおける“映画的手法”を検証する。

映画的手法は手塚治虫の『新宝島』によって始まったとされるが、
歴史を遡ってみると、ロングショットや「奥-手前」のパースペクティブなど
「映画らしい」表現は戦前から登場している。
ロシアアヴァンギャルドやモンタージュ理論の影響に加えて、
著者が指摘しているのが、戦時下における、まんがの表現統制の影響である。
驚いたことに、戦時下、まんがは「空想的ではなく科学的」であるように
統制されるのだ。

 科学的知識ニ関スルモノ-従来ノ自然科学ソノモノヲ誠実ニ
 興味深ク述ベタモノ以外ニ科学的知識ヲ啓発スル芸術作品ヲ
 取上グルコト(例ヘバ、爆弾、タンク、飛行機等ノ如キモノニシテモ、
 ソレ等ノモノノ持ツ機能ヤ本質ニ触レ得ルテーマノモトニ取扱フコト)
 (日本児童絵本出版協会『「漫画絵本に就いて」の座談会速記録』)

これによって、まんがは「文化映画」や「記録映画」のような
リアリズム表現を導入していく。

著者が冒頭で書いているように、まんがに親しんで育った日本人にとって
まんがが「映画的」であるとか、モンタージュ的であるといったことは
特に意識することもなく、ごく当たり前の表現として受け入れている。
これを漫画史と映画史の両面から検証していくのは
著者らしい知的な作業で非常にわくわくする。

後半のワークショップでは、石森章太郎の『竜神沼』の「映画的手法」を分析。
絵コンテにすることで『竜神沼』がいかに映画的であるか、
また、映像として撮影してみることで、
まんががいかに自由自在なカメラワークをもっているかが見えてくる。
どの作品でも、この作業を一度まじめにやれば映画やまんがの見方が変わるはず。

新海誠はノートに描いた絵コンテをスキャンしてフォトショップで読み込み、
簡単な着彩や光源を描き込んだ上で、アフターエフェクツで時間軸に並べ、
自分自身や周りの人で台詞を録音して「ビデオコンテ」を作成しているという。
(ピクサーは同じようにスケッチを撮影して「ストーリーリール」を作成しているけど、
ストーリーチェックの意味合いが大きいピクサーに対して、
新海誠のビデオコンテはアニメ製作過程のひとつという感じ。)

そして、これがこの本の中でも非常に重要な点だと思うのだが、
著者はこの「実験」が「映画的手法」の追体験と検証だけではない意味を持つという。

 これらの「実験」が間もなく「紙」から「まんが」が出て行かなくてはならない
 時代にあって、「WEB化されたまんが」がいったいこの先どのように
 変わっていくことになるのかを考える大きな手懸りとなるはずだからだ。
 例えばキンドルは一頁単位で本を表示する。すると「見開き」という概念は消える。
 携帯コミックはコマ単位を自分のテンポで任意にクリックしていく。
 つまり見開き単位のコマのコラージュ的なヒエラルキーは消滅する。
 まんが研究では流行の視線誘導論も成立しなくなる。
 携帯コミックのようにコマごとの表示が主流になれば変形ゴマは意味がなくなり、
 液晶のサイズに統一された方が見易いはずだ、ということにもなる。
 しかし、だったらそもそも動いて音や色がついた方がいいということにもなり、
 ならばアニメとどう違うのか。
 紙からWEBへとまんがが移行するとすれば、「まんが」は現在の形式性を一度、
 解体する必要に迫られるはずだ。「映画的手法」のまんがを「映画」化するという
 転倒の中で見えてくるのは「まんが」の「次の形」への手懸りでもある。


◆読書メモ

『桃太郎 海の神兵』

日本のまんがやアニメがアジアにあっては、かつてまっ先に大東亜共栄圏に
組み込まれた韓国や台湾にまず届き、ヨーロッパにあってはファシズムを
経験したイタリアやフランスに最初に受容されたことが偶然なのか、
歴史の必然なのかは議論が分かれるところだが、
少なくとも「世界に届く」まんがに便乗しようとして「クールジャパン」と
口走ることで構造しかない日本をプロパガンダした気分になる行政や現代思想と違って
ぼくは、「なぜ届くのか」という問いをもスルーすることはできない。

「建築」は「芸術」と「工業」との融合としての
構成主義の極限として意識されるものである。
建築を論じることはアヴァンギャルド青年のたしなみみたいなものだったから、
今現在、建築評論家や建築用語が「オタク」論壇と妙になじみ深い(?)のも多分、
このあたりにまで遡れる問題だ。

あのミツキーマウスも実に数箇の円形によって成立して居るのであつて、
漫画映画姿態として理想的と称して過言ではないと思ふ。
まづミツキーの顔を考察して見ると、第六図の如くになる。
そのイは円の集り、口は肉を附けたるものである。
またミツキーの体も数個の円の集りである。即ち首、胴、腰、
の三箇の円と手足の四箇の小円形よりなつて居る。
しかも、その円と円とを黒縁にて連絡さえて腕脚を造つて居る、
黒線である腕脚には関節がない、関節のない腕脚は自由自在に
運動せしめることが出来る。
(大藤信郎「漫画講座」第三講『パテーシネ』1937年5月号)


ドキュメンタリー方法の本質は、現実的題材の劇化の中にある。
(ポール・ルータ著、厚木たか訳『文化映画論』)

本『バンド臨終図鑑』

バンド臨終図巻

『バンド臨終図巻』
著 速水健朗、円堂都司昭、栗原裕一郎、大山くまお、成松哲
河出書房新社

ビートルズから羞恥心まで、200組のバンドの解散理由をつづった本。
例外的に長いフリッパーズ・ギター(4ページ)、X JAPAN(6ページ半)などをのぞくと、
それぞれのバンドの記述は半ページから2ページくらい。
ある意味、本当に解散理由を並べただけの本、ともいえる。
噂のたぐいは排除して、音楽雑誌や自伝などの文献をもとにしていることもあって、
それぞれのファンにしてみれば「知ってる」話も多いだろう。
それでも、これだけの数が集まると、人間関係を維持することの難しさ、
「バンドという小さい共同体がいかにして崩壊するか」というのが見えてくる。

一番多い解散理由は「売れなくなった」から、じゃないかと思うが、
全国ツアーやアルバム発売が決まっていたのに、突然解散してしまうバンドもある。
ファンや多くのスタッフに迷惑かけて、お金もかかって、
それでもなお、「もう続けられない」という気持ちが勝っちゃうことがあるのだ。
売れている間であれば、我慢できたことも、ヒットしなくなると
「音楽の方向性」について議論するようにもなるだろうし、
自分たちの音楽ができればいいと思っていたバンドも
突然、大ヒットして、大金がころがりこむようになれば、
それぞれの望むものも変わってしまうだろう。

この本でざっと見ると、ヒットを飛ばしてからバンドがもつまでだいたい3~4年くらい。
これって恋愛期間と同じくらい?(いや、勝手な数値ですが)
別れた恋人たちに理由を聞いても、本人たちですらよくわからないこともあるわけで、
ましてや愛憎や友情に、ビジネスがからむバンドの場合、
本当の解散理由なんて、やっぱりわからないんじゃないかなと。

しかし、多くのバンドが10年ぐらい経つと再結成してますね。
(なかには、そんなに再結成するなら、解散しなきゃいいだろうってバンドや、
それもう違うバンドだからってくらいメンバーが入れ替わってるバンドも。)
時間が経つと、いろんなことが許せるようになるんでしょうか。

実は、今年3月に開催されたバービーボーイズのライブに行ったんだよね。
バービーは昔、チネチッタのライブに行ったことがあるんだけど、
今年見た彼らは昔と同じようにかっこよかった。
解散して10年以上凍結していたからこそ、
昔と同じバービーが見られたと考えると再結成も悪くない。

本『バンド臨終図鑑』 その2

長くなったのと本の感想からは趣旨が少しずれるのでページをわけます。

『バンド臨終図鑑』、最初は知っているバンドのところだけ
斜め読みしてたんだけど、知らないバンドも多いので、
途中から、それぞれの代表曲を聴きながら読むことに。
もちろん時間がかかったけど、
「このベースとギターがケンカして解散したのか」とか
「このドラムが事故死しちゃうのね」と思いながら見ると感慨深い。

レイジーってアイドル時代を全然知らないんだけど、
『赤頭巾ちゃん御用心』と『電撃戦隊チェンジマン』と『ULTRA HIGH』が
同じ人の歌だとわかってびっくりしたり。

へヴィメタとプログレはやっぱり好きになれないけど
渋谷系は意外とありかも、とか「バンド再発見」も多かったです。
「バンドはなくなっても曲は残る」(by甲斐バンド)。

あと、もうひとつ思ったのは、
私、90年以降の音楽をほとんどまじめに聴いてないなと。
名前を聞いたことがあっても、曲を知らないバンドがほとんど。
(あるいはヒット曲しかしらない。)
音楽がなければ生きていけない年齢ではなかったこともあるし、
小室やビーイング系の音楽を「安っぽくて商業主義的だ」と
思ってたこともあるし、(80年代だって商業主義なんだけどね)
音楽業界自体が縮小傾向にあった時代だからなんだろうけど。

あらためて聴いてみるといい曲もいっぱいあったりして、
これをリアルタイムで聴かなかったのは損だったなー。
これからはもうちょっと目を向けてみようかと思います。

埋め込むとキリがないので、以下、リンクのみ。
(リンク切れ、その他、責任は負えませんが)

1983 Supremes Reunion - "Someday We'll Be Together"
スプリームス再結成&ダイアナがメアリーを押しのけた映像。
『ドリームガールズ』のラストと比べると、フローレンスの不在が悲しい。

ザ・スパイダース あの時君は若かった

Starship – We Built This City
『シスコはロックシティ』という邦題とともにダサかっこいい。

ザ・タイガース 青い鳥
PVではなくGS映画という幸せな時代。

Yes "Owner Of A Lonely Heart"
この曲わりと好きだったんだけど、再結成時のヒット曲なんだね。

ゴールデン・ハーフ
意外に美脚。

J.Geils Band - Centerfold
女の子たちが意味なくかわいい。

kraftwerk- The Robots
1978年でコレって、かっこいい。

Japan - Visions of China

My Sharona - The Knack
『リアリティ・バイツ』!

The Cure - Friday Im In Love

dexys midnight runners come on eileen

Everything but the girl - Missing

Stone Roses - Elephant Stone

NEW KIDS ON THE BLOCK - STEP BY STEP

Take that -Back for good

Oasis - Whatever

センチメンタル・バス-Sunny Day Sunday

Hysteric Blue - 春~spring~

EE Jump おっととっと夏だぜ!

ZONE secret base ~君がくれたもの~

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