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本『映画式まんが入門』

映画式まんが家入門 (アスキー新書 152)
『映画式まんが家入門』
著 大塚英志
アスキー新書

日本のまんが表現はなぜ「エイゼンシュテインみたい」なのか
というところから始まって、日本のまんがにおける“映画的手法”を検証する。

映画的手法は手塚治虫の『新宝島』によって始まったとされるが、
歴史を遡ってみると、ロングショットや「奥-手前」のパースペクティブなど
「映画らしい」表現は戦前から登場している。
ロシアアヴァンギャルドやモンタージュ理論の影響に加えて、
著者が指摘しているのが、戦時下における、まんがの表現統制の影響である。
驚いたことに、戦時下、まんがは「空想的ではなく科学的」であるように
統制されるのだ。

 科学的知識ニ関スルモノ-従来ノ自然科学ソノモノヲ誠実ニ
 興味深ク述ベタモノ以外ニ科学的知識ヲ啓発スル芸術作品ヲ
 取上グルコト(例ヘバ、爆弾、タンク、飛行機等ノ如キモノニシテモ、
 ソレ等ノモノノ持ツ機能ヤ本質ニ触レ得ルテーマノモトニ取扱フコト)
 (日本児童絵本出版協会『「漫画絵本に就いて」の座談会速記録』)

これによって、まんがは「文化映画」や「記録映画」のような
リアリズム表現を導入していく。

著者が冒頭で書いているように、まんがに親しんで育った日本人にとって
まんがが「映画的」であるとか、モンタージュ的であるといったことは
特に意識することもなく、ごく当たり前の表現として受け入れている。
これを漫画史と映画史の両面から検証していくのは
著者らしい知的な作業で非常にわくわくする。

後半のワークショップでは、石森章太郎の『竜神沼』の「映画的手法」を分析。
絵コンテにすることで『竜神沼』がいかに映画的であるか、
また、映像として撮影してみることで、
まんががいかに自由自在なカメラワークをもっているかが見えてくる。
どの作品でも、この作業を一度まじめにやれば映画やまんがの見方が変わるはず。

新海誠はノートに描いた絵コンテをスキャンしてフォトショップで読み込み、
簡単な着彩や光源を描き込んだ上で、アフターエフェクツで時間軸に並べ、
自分自身や周りの人で台詞を録音して「ビデオコンテ」を作成しているという。
(ピクサーは同じようにスケッチを撮影して「ストーリーリール」を作成しているけど、
ストーリーチェックの意味合いが大きいピクサーに対して、
新海誠のビデオコンテはアニメ製作過程のひとつという感じ。)

そして、これがこの本の中でも非常に重要な点だと思うのだが、
著者はこの「実験」が「映画的手法」の追体験と検証だけではない意味を持つという。

 これらの「実験」が間もなく「紙」から「まんが」が出て行かなくてはならない
 時代にあって、「WEB化されたまんが」がいったいこの先どのように
 変わっていくことになるのかを考える大きな手懸りとなるはずだからだ。
 例えばキンドルは一頁単位で本を表示する。すると「見開き」という概念は消える。
 携帯コミックはコマ単位を自分のテンポで任意にクリックしていく。
 つまり見開き単位のコマのコラージュ的なヒエラルキーは消滅する。
 まんが研究では流行の視線誘導論も成立しなくなる。
 携帯コミックのようにコマごとの表示が主流になれば変形ゴマは意味がなくなり、
 液晶のサイズに統一された方が見易いはずだ、ということにもなる。
 しかし、だったらそもそも動いて音や色がついた方がいいということにもなり、
 ならばアニメとどう違うのか。
 紙からWEBへとまんがが移行するとすれば、「まんが」は現在の形式性を一度、
 解体する必要に迫られるはずだ。「映画的手法」のまんがを「映画」化するという
 転倒の中で見えてくるのは「まんが」の「次の形」への手懸りでもある。


◆読書メモ

『桃太郎 海の神兵』

日本のまんがやアニメがアジアにあっては、かつてまっ先に大東亜共栄圏に
組み込まれた韓国や台湾にまず届き、ヨーロッパにあってはファシズムを
経験したイタリアやフランスに最初に受容されたことが偶然なのか、
歴史の必然なのかは議論が分かれるところだが、
少なくとも「世界に届く」まんがに便乗しようとして「クールジャパン」と
口走ることで構造しかない日本をプロパガンダした気分になる行政や現代思想と違って
ぼくは、「なぜ届くのか」という問いをもスルーすることはできない。

「建築」は「芸術」と「工業」との融合としての
構成主義の極限として意識されるものである。
建築を論じることはアヴァンギャルド青年のたしなみみたいなものだったから、
今現在、建築評論家や建築用語が「オタク」論壇と妙になじみ深い(?)のも多分、
このあたりにまで遡れる問題だ。

あのミツキーマウスも実に数箇の円形によって成立して居るのであつて、
漫画映画姿態として理想的と称して過言ではないと思ふ。
まづミツキーの顔を考察して見ると、第六図の如くになる。
そのイは円の集り、口は肉を附けたるものである。
またミツキーの体も数個の円の集りである。即ち首、胴、腰、
の三箇の円と手足の四箇の小円形よりなつて居る。
しかも、その円と円とを黒縁にて連絡さえて腕脚を造つて居る、
黒線である腕脚には関節がない、関節のない腕脚は自由自在に
運動せしめることが出来る。
(大藤信郎「漫画講座」第三講『パテーシネ』1937年5月号)


ドキュメンタリー方法の本質は、現実的題材の劇化の中にある。
(ポール・ルータ著、厚木たか訳『文化映画論』)

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