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本『「当事者」の時代』

『「当事者」の時代』
著 佐々木俊尚
光文社新書

佐々木さんの本はほとんど読んでいるし、Twitterも見ているので、
最初に『「当事者」の時代』というタイトルを聞いたときは、
「あー、東日本大震災において、「被災者の気持ちになれ」って
言ってしまう人たちの話だろうな」と予想はついた。
“マイノリティ憑依”という言葉もすんなり納得がいった。

実際に本を読んでみたら予想と違って、
震災以後の話は終章に出てくる程度だった。
もちろん、あとがきにあるように、震災がこの本の方向性に
大きく影響を与えていることは間違いないのだが、
それを期待して読んだ私からすると「あの話はまだー」のように
感じるほど、前置きが長い。(いや前置きじゃないんだけど。)

著者が新聞記者時代に体験した<夜回り共同体>と<記者会見共同体>の問題、
プロフェッショナルな市民運動に仮託して描いた「市民感覚」、
小田実による<被害者=加害者>論、津村喬の『わられの内なる差別』、
「七・七告発」による学生運動全体への波及、
1970年に<マイノリティ憑依>へと走った本多勝一、
「憑依」を支えてきた総中流社会、
1990年代後半に五十五年体制が崩壊し、
<マイノリティ憑依>がエンターテイメントとして意味をもたなくなる、
ざっとこんな感じでメディア言論の変遷を追っている。

ひとつひとつの話はしっかりしているし、
アル・ジョルソンやヤシロのエピソードもおもしろい。
しかし、1970年当時をリアルで知らない私にとって、
たかだかひとりの論文が当時の言論を変えてしまうほどの
力を本当にもっていたのか、そのまま信じられない。
津村喬や本多勝一についてもちゃんと著作を読んだことがないので、
佐々木さんが語るままの受け止め方をしていいのか、と感じてしまう。
『クライマーズ・ハイ』を見たときにも思ったけど、
記者と警察のわずかなボディーランゲージによって作られる特ダネ
って何だろう、これをジャーナリズムといえるのかという疑問もぬぐえない。

マイノリティ憑依する人たちはいつの時代にもいたのだろうが、
東日本大震災やネットによって、露骨にその声が大きくなった気がする。
「被害者の前で同じことが言えるのか」
「福島の母親の気持ちになってみろ」
と罵倒する人たちは、被害者でもないし、福島に住んでもいない。
そのことに対する気持ち悪さは震災以後ずっと感じており、
<マイノリティ憑依>という言葉で説明されてすっきりした。
ただ、私が掘り下げてほしかったのは現在の部分なので、
そういう意味でははなはだ物足りない。

◆読書メモ

ゼロ年代に入るころからこういう同心円社会は終わり、会社の人間関係や
趣味の人間関係、飲み友だちの人間関係、
大学の同窓生の人間関係というような多様な外部へのつながりを、
ひとりの人間が掛け持ちするような方向へと進んできている。
つまりは「多心円」社会だ。しかしこの多心円的な社会は、
自分の立ち位置がはっきりしない不安な社会でもある。
おまけにグローバリゼーションが進行していくなかで
日本社会からは富が失われ、中産階級も没落しはじめている。
多くの人々が、今後の自分の生活がどうなってしまうのか、不安に感じている。
かつてのようなムラ社会に懐かしさを抱き、「中間共同体復興論」がさまざまな
言論人によって語られるようになってきている。
とはいえ今までのような農村や企業社会が復活してくるというのは
あまり現実的ではない。そういう状況のなかで、フェイスブックのような
リアルの人間関係をそのままネットに転写したサービスが、
中間共同体的な安心感をもたらすツールとして作用するようにも
なってきているということだ。

しかし彼ら(在日)は決して異物でも、いつかはどこかへ
帰っていってしまう存在でもない。好むと好まざるとにかかわらず、
日本に根を下ろし、日本における「内なる異邦人」として
生活している人たちなのだ。彼らの存在は、「日本人」という
アイデンティティの外郭の境界線をどうとらえるのかという点において
非常に重要な問題を孕んでいる。

「『あの時代』の叛乱は、高度成長に対する集団摩擦反応であったと同時に、
こうもいえるであろう。それは、日本が発展途上国から先進国に、
『近代』から『現代』に脱皮する過程において必要とした通過儀礼であり、
高度資本主義社会への適応過程であったのだ、と」
(『1968』小熊英二)

加害者と被害者という二極の対立があったとしても、
私たちは完全な加害者にはなれないし、完全な被害者にもなれない。
小田実の言うように、なにかの被害者だからこそ加害者になっているような
徴兵されたアメリカの若者や沖縄の基地労働者は、
完全な加害者でも完全な被害者でもない。
そして同時に、私たちはけっして第三者の立場に立つこともできない。
加害者と被害者を上から見下ろすような神の視点で、
ものごとを見ることはできない。

そもそもわれわれはあらゆる局面で差別する側であると同時に差別される側で、
侵略する側であると同時に侵略される側だ。
小田実の「被害者だから加害者になった」という<被害者=加害者>論。
この論をさらに先に進めれば、わたしたちは「被害者だから加害者になった」
だけでなく、「加害者であると同時に被害者である」
そして私たちはつねに、
「加害者と被害者の間のどこかの地点に立っている」
ということなのだ。決して被害者に「同化」はできないし、それは単に勝手に
憑依しているにすぎない。本当は単なるひとりの人間なのに、
狐憑きによって自分は狐になったと思い込んでいるようなものだ。
狐憑きは決して狐には同化できないのである。

だから津村は、本多が著書のタイトルにも使った「殺される側の論理」
といういいまわしを強く批判し、こう書いた。
「このような観念的な同化を前提とした報道のこちら側に可能なのは、
『同情する側の論理』であっても『殺される側の論理』ではない」と。

つまりヤシロは、建物を指すのではなく場所を指していたのだ
ということを折口は言っているのだ。神々はいたるところに偏在する存在で、
そこに意図的に空白の場所「しろ」をつくっておけば、
そこに神がやってくるというのだ。つまりは、神社は神社の建物そのものが
神々しいのではなく、その中心に神がやってくる空白の何もない空間が
つくられていることが神々しいのだ。

神社の中心は、何もないからっぽの空間である。
だからといって私たち日本人はその空っぽを勝手に神様だと勘違いして
お参りしているのではなく、その空っぽの空間に神が舞い降りてくるのを
信じて、だからこそ神社の前で手を合わせてお祈りするのである。

入社し岐阜支局に配属された直後から、上司や先輩から「弱者」
という言葉を何度となく聞かされるようになった。
「弱者に光を当てるんだ」
「弱者を描け。それによって今の日本の社会の問題が逆照射されるんだ」

なぜなら、<マイノリティ憑依>とエンターテイメントが織り成すメディア空間は、
決して読者に「あなたはどうするんですか」という刃を突きつけないからだ。
先ほどから説明してきた二つの読み方―偽の神の視点と、
エンターテイメントとしての視点は、両極端であるけども、共通性がひとつある。
それは、どちらの読み方も「自分の問題として受けとめていない」
ということである。

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