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本『インターネットは民主主義の敵か』

『インターネットは民主主義の敵か』
著 キャス・サンスティーン
毎日新聞社

アメリカで発売されたのが2001年、日本版が2003年なので、
もう10年以上前の本だが『閉じこもるインターネット』で思い出したので
引っ張り出してきました。

インターネット論や検索エンジンが与えた社会的影響といったときに
必ず取り上げられるのが、この本。
つまりは、ネットのフィルタリングは、同じ意見の人どうしが集まり、
孤立化し、自分とは反対の論を見なくなることを助長し、
サイバー・カスケードを生むというのが主論。
最初に聞いたときは、ネットに否定的な人の心配しすぎな論じゃないかと
思ったのだが、以下、ちょっと引用。

「第一の問題点は分裂、つまり言論によって多様の集団が成立することだ。
情報通信の選択が集団ごとに違うわけだ。その結果のひとつとして、
相互理解が難しくなると考えられる。社会が分裂すると、過激主義や憎悪、
そして暴力までも引き起こしかねないグループの二極化が進むことになる。
もちろんインターネット等の新テクノロジーのおかげで、
自身の声の反響を聞いたり、自らを隔離する能力が劇的に高まっている。
重大な結果のひとつにサイバー・カスケードがある。
ある特定の事実あるいは見解が、多数の人が信じていそうだという理由だけで、
広くゆきわたる情報交換のプロセスのことだ。」

「明白なのは、大小含めて多くの社会的グループは
驚くほど素早く特定の信念または行動へと飛びつくことだ。
この種のカスケードは情報の伝達を伴うが、
実際には情報が牽引車になっている。ほとんどの人は、重大な事柄について
直接の、あるいは本当に確かな情報を持ち合わせていない。」


これは現在、まさに起こっていることじゃないだろうか。
2001年と今で大きく違うのは、検索によるフィルタリングがより強力になったこと。
(GoogleがYahoo!に採用されるのが2000年なのだが、
この本にはグーグルの名前は出てこない。)
そして、対抗手段になるはずの新聞や雑誌などの影響力が落ちたこと。
(過激な思想のネットグループとして仮想の「ボストン・ティー・パーティ」が
登場するのはちょっと笑える。ティーパーティ運動が始まったのは2009年。)

私たちは現在、あふれるほどの情報に囲まれているはずだが、
受け止めているのはほんの一部だ。
ニュースにしたって、RSSやTwitterの見出しだけ見て判断していることが多い。
はたしてこれでいいのだろうか、というのが最近の私の関心事であります。


(著者は防衛手段として、自分と異なる意見のリンクを義務づけるとか
政府による公共的な議論の場所を提案しているが、
現実性にとぼしく、実際、10年後に効力を発揮していない。
ついでに付け加えると、元々、硬い文章だったのか、訳が悪いのか、
非常に文章が読みにくい。
政府による規制の部分は正直、理解できなかったです。)

関連本:
『閉じこもるインターネット』
『ネット検索革命』
『グーグル革命の衝撃』

◆読書メモ

情報選択肢の多様性と選択可能な範囲の広さは、民主的な国々では
昔から当たり前のことの現代的な展開といえる。だが、昨今の状況には
大きな変化がある。選択肢の劇的な増加と同時に個人のコンテンツへの
コントロール能力が増大し、一方、新聞、雑誌、それに放送を含む一般向けの
中間媒体(メディア)の影響力が低下していることだ。

インターネットのせいで、他者との予期せぬ意外な出会いの機会が減っている。

何百万人もの人が便利さと引き換えに他者との偶然の出会いを失うこと、
そしてそれが民主主義や市民権に及ぼす影響を心配することは
断じて馬鹿げたことではない。

(個人用にカスタマイズされた恋愛小説を掲載するウェブサイトが少なくとも
一つあると聞いてびっくりするだろうか。「あなたの空想の愛人」について
情報を提出すると、自動的に各自の趣味に合うように話が展開する)。

インターネットで今起きていることは、いろいろな意味で
大変素晴らしいことである。アマゾン・コム等が推薦するもののなかには
信じられないほど優れたものがある。不気味なほどだ
(多くの人が、この方法で今まで知らなかった作家を好きになる)。
だが、結果として視野が狭くなり、今の好みに満足していればよいという考え方を
助長するとすれば、大問題だ。以下の例を考えてみよう。
ある特定の政治的信条をもつ人たちが、同じ信念の著者を
次から次へと探し出し、その結果、自身の判断をより賢固にしてしまう。
というのも、どの本も同じ主張をしているからだ。

完璧なフィルタリングが可能な世界を想像してみると、
三つの問題が指摘できる。各個人が完全に情報通信の世界を掌握していて、
自分から進んでは選ばないが、ためになるものへの接触や
コミュニケーションの共有体験を減らすようにコントロールできるシステムでは、
これらの問題は悩みの種になるだろう。

第一の問題点は分裂、つまり言論によって多様の集団が成立することだ。
情報通信の選択が集団ごとに違うわけだ。その結果のひとつとして、
相互理解が難しくなると考えられる。
社会が分裂すると、過激主義や憎悪、そして暴力までも引き起こしかねない
グループの二極化が進むことになる。
もちろんインターネット等の新テクノロジーのおかげで、
自身の声の反響を聞いたり、自らを隔離する能力が劇的に高まっている。
重大な結果のひとつにサイバー・カスケードがある。
ある特定の事実あるいは見解が、多数の人が信じていそうだという理由だけで、
広くゆきわたる情報交換のプロセスのことだ。

第二の問題は、情報の特質である。ある人がある事を知れば、
他の人にもその恩恵を受ける可能性があるという意味で、
情報は一種の公共財といえる。近所での犯罪や地球温暖化問題について
何か情報が入れば、多分、他の人にも伝えるだろう。
そうすれば、自分の知識が他の人のためになる。
各自が情報通信の世界を「カスタマイズ」できるシステムでは、
個人の選択がその社会的な恩恵から切り離されるので、
人々が情報をあまり生み出さない選択をするリスクがある。

消費者主権を信じ、フィルタリング能力を賛美する人には、
自由とは個人の好き嫌いを満たすこと、つまり個人の選択への
拘束がないことを意味する。この見解を支持する人は、結構多い。
実際、それは自由言論に関する現在の論調の基礎となっているが、
大きな誤解といえる。自由とは好き嫌いを満たすだけでなく、
それなりの条件の下で好き嫌いや信念を確立する機会のことでもある。
十分な情報や広範でかつ多様な選択肢を検討した後で、
好き嫌いを決める能力のことだ。「デーリーミー」体制の下では、
この自由の保証があるとはいえない。

「インターネットは、あなたと興味が同じ人たちとの出会いの機会を
与えてくれる。興味の対象がどんなに専門的なものであっても、
どんなに風変わりのものでも、どんなに大きくても、
あるいは小さくても関係ない」。
ジオシティーズ・コム創立者デビッド・ボーネット

集団分極化という現象に目を向ければ、理解が深まるかもしれない。
個人や集団がさまざまな選択をするさいに、多くの人々を自作の
エコーチェンバー(訳注 反響効果を人工的につくり出す部屋)に
閉じ込めてしまうようなシステムがこの現象の原因ではないか、
という疑問が出てくる。

集団分極化とは以下のような非常に単純なことを意味する。
グループで議論をすれば、メンバーはもともとの方向の延長線上にある
極端な立場へとシフトする可能性が大きい。インターネットや
新しい情報通信テクノロジーに照らし合わせてみれば、
同じような考え方の人間が集まって議論をすれば、
前から考えていたことをもっと過激なかたちで考えるようになる、
ということを意味する。

ドイツの社会学者エリザベス・ノエル=ノイマンは、この考え方を
世論の一般理論の土台にした。この理論のなかで「沈黙のらせん」
という概念が展開されているが、これは、少数派の人は沈黙してしまい、
時間と共に少数派の見解が跡形もなく消えてしまうという考えだ。

明白なのは、大小含めて多くの社会的グループは
驚くほど素早く特定の信念または行動へと飛びつくことだ。
この種のカスケードは情報の伝達を伴うが、
実際には情報が牽引車になっている。ほとんどの人は、重大な事柄について
直接の、あるいは本当に確かな情報を持ち合わせていない。

ジョアンは有害廃棄物のごみ捨て場が危険であることを知らなくて、
メリーがその危険を当然に恐れるべきだと考えれば、
ジョアンも恐怖へと駆り立てられるかもしれない。
ジョアンとメリーが共にそのごみ捨て場を怖がって当然と考えれば、
カールも、逆が真理であるとの独自の情報がなければ、
結局同じように考えるだろう。
ジョアン、メリー、そしてカールが有害廃棄物のごみ捨て場は危険だと信じれば、
ドンが三人の結論に異議を唱えるには相当の自信がなければならない。
そしてジョアン、メリー、カール、ドンがこの問題で団結すれば、
他の人たちが後を追う可能性が出てくる。

これ例は、情報が、たとえ完全に誤っていても、どのように伝播して
受け入れられるかを示すものだ。実際のわかりやすい例として、
危険な有害廃棄物のごみ捨て場が最も深刻な環境問題のひとつである
と広く信じられていることがある。
だが、これはカスケード経由で広まったもので、科学的な裏づけはない。

社会理論家のジョン・エルスターは、この点を狐と酸っぱい葡萄の話を使って
説明している。狐は、葡萄は酸っぱいだろうと信じて、欲しがらない。
だが葡萄は酸っぱいと狐が信じるのは、葡萄に手が届かなかったからだ。
手に入らないという事実を知ったから、狐は葡萄に対する態度を
変えたわけである。葡萄は手に入らない。したがって、葡萄は酸っぱく、
自分は欲しくないと結論している。エルスターは、葡萄が入手不能であることが
まさに狐の選好の理由であるとき、狐のその選好によって
葡萄が入手不能であることを正当化できない、と正しくも主張している。
エルスターが示唆しているのは、選択肢を剥奪された市民は、
剥奪されたもの自体を欲しがらなくなるかもしれないということだ。
そして、それが剥奪されたから市民がそれを欲しない場合は、
市民がそれを欲しない事実を理由に剥奪を正当化することはできない。
情報通信やメディア政策の分野に関してここから言えることは、
極めて少数の、あるいは厳しく制限された選択肢しかないシステムは、
たとえそれ以上の選択肢への欲求が民衆にはほとんどあるいはまったく
ないとしても、合理的に擁護できないということである。

人類の進化の現段階において、各自が自身とは違うタイプの人たちや、
慣れ親しんだ考え方や行動とは異なる考え方や行動に触れることの価値は
誇張しきれない。そのようなコミュニケーションはいつでも、とりわけ現代では、
進歩の主因のひとつである。
ジョン・スチュアート・ミル

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