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本『機械より人間らしくなれるか?』

『機械より人間らしくなれるか?
AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる』

著 ブライアン・クリスチャン
草思社

審判団が人間とコンピュータプログラムとそれぞれ5分間チャットし、
どちらが本物の人間か判断する「チューリングテスト」。
チューリングは「2000年には5分間の会話で30パーセントの審判員を騙せる」
と予言したが、現在もこの基準は突破されていない。
ローブナー賞とよばれるチューリングテストの大会では、
高い得点を集めたプラグラムに「最も人間らしいコンピュータ」の称号が贈られ、
一方で、高い得票を集めたサクラに「最も人間らしい人間」賞が贈られる。

著者はこの「最も人間らしい人間」賞の獲得をめざし、
チューリングテストの大会に参加する。
過去の大会の会話記録を読み漁り、人間とチャットの差は何か、
ボットにアイデンティティはあるのか、人間らしいとは何かを考える。

チューリングテストこそ知っていたものの、このテストがいまだに
行われていることは知りませんでした。
著者はコンピューターサイエンスと哲学の学位をもっている人だけに、
大会の様子をドキュメンタリータッチに描くのではなく、
参加するまでに自分が「人間らしさとは何か」を考えた過程を執拗に検証する。
どんなプログラムなら人間らしく見えるのか、どういう風に会話を進めれば、
自分が人間だと審判にわかってもらえるのか。
サクラ役の人間は「自分らしくいればいい」とアドバイスされるが、
そもそも「自分らしい」とはどういうことかと著者は考える。

有名なディープブルーとカスパロフのチェス対決については
ほとんど一章ぶんが割かれているのだが、この対決で
チェス王者がコンピューターに負けたのは、カスパロフが
定跡の指し手を間違えたためだという。
定跡だけ指し続けるなら、人間だってプログラムと変わらないのでは?

哲学的な面がちょっと強すぎるので、
ドキュメンタリー的な部分がもっとあってもいい気がしますが、
「人間らしい」というのが実はすごく難しいことであると
これでもかと語っている、とてもおもしろい本。

奇しくも本日はアラン・チューリング生誕100年だとかで、
グーグルのトップがアルゴリズムゲームになっています。

Turing


◆読書メモ

この大会がはじまってすぐの1994年に
この《最も人間らしい人間(Most Human Human)》賞を受けたのは、
『ワイアード』誌のコラムニスト、チャールズ・プラットだった。
彼はどうしてこの賞を受賞できたのか。
それは「不機嫌でイライラしてけんか腰」にしていたからだと彼は言う。

このチューリングテストの大会(その代名詞であるローブナー賞としても
知られる)のスポンサー兼主催者は、興味深くいささか風変わりな人物だ。
プラスチック製の巻き上げ移動式ディスコダンスフロアを販売して
一財産を築いたヒュー・ローブナーである。

全メールの約97パーセントが迷惑メール―一日に送受信されるメールの
総数は100億通であり、実際に全世界の迷惑メールを処理するのに
かかる電力だけで、小さな国であれば総電力をまかなえる計算になる。

1940年代にベル研究所でクロード・シャノンがエリザベスと出会ったとき、
彼女がコンピュータだったというのは本当の話である。(略)
工学者と計算係(コンピュータ)の結婚など日常茶飯事だったのだから。

18世紀半ば以降、企業や設計事務所や大学に雇われた
計算係(多くは女性)が、ときには原始的な計算機を使って、
計算や数値解析をおこなっていた。

チューリングテストで好成績を収めてきたプログラムを調べていて
面白いのは、一つには(率直かつ大真面目な話)、
感情がまったく存在しなくても会話は成り立つとわかることだ。

サクラの一人を務め、話題として指定されたシェイクスピアの
専門家であったシンシア・クレイは、三人の審判員から
コンピュータだと判断されたことで知られている。
審判員たちは皆「こんなにシェイクスピアに詳しい人間が
いるはずがない」と考えたようだ。

また別の会話では、クイーンの曲『ボヘミアン・ラプソディ』
の歌詞を互いに書いている。
ユーザー スカラムーシュ、スカラムーシュ。
クレバーボット ファンダンゴを踊るかい?
ユーザー 落雷と稲妻だ。
クレバーボット とてもとても怖い!
ユーザー ガリレオ
クレバーボット ガリレオ、ガリレオ。

「ボットを作るときには、プログラムを書くのではなく小説を書く」
と話すのは、2001年と2005年に続いて2008年の大会でも
次点となった《ユージン・グルーストマン》というプログラムを開発した
ユージン・デムチェンコとウラジミール・ベセロフである。彼らは、
一人のプログラマーに機械の返答を書かせることの重要さを強調する。

友情や恋愛、さらに一般的に言えば人間同士の親密さに関心を持つ
哲学者たちは、近年になって、好みのタイプ(つまり、どんな相手が
好きか)と、人生のなかで関わりを感じる特定の人間とを区別しようと
試みてきた。トロント大学の哲学者ジェニファー・ホワイティングは、
前者を「人格のない友人」と呼んだ。どこにでも大勢いて基本的に
代替可能な「人格のない友人」と、かけがえのない特に大切な相手との
違いは、いわゆる「歴史的資産」にあると彼女は言う。すなわち、
自分にとって本当の友人と、数えきれないほどいる「人格のない友人」
が代替可能なのは、人間関係がはじまる瞬間だけなのだ。
それから関係が根を下ろしはじめ、共通の歴史、共通の理解、共通の経験
が築かれ、犠牲になることも譲歩することも勝利することもある……。

ちなみに、人間はあらゆる生物のなかで強膜―いわゆる「白目」―が
最も大きく目立つことで知られている。この事実に科学者が興味を
抱いているのは、逆に人間にとってかなり不都合があるように思えるからだ。
たとえば、昔の戦争映画には迷彩服を着て顔に緑色や茶色の顔料を
塗りたくった兵士が登場する―だが白く目立つ強膜は隠しようがなく、
ジャングルのなかでひときわ輝いている。このように明らかに不都合が
あるにもかかわらず人間の強膜が大きく目立つようになったのには、
なにか理由があるに違いない。実際、強膜が目立つことの利点は、
紛れもなく、遠くからでも他の人がどの方向を見ているのか
はっきりわかること―これを「協調的な目の仮説」という―である。

17世紀にデカルトは体のなかの「魂のありか」を正確に把握しようと
試み、脳の中心にある松果腺がそのありかであると考えた。

古代エジプトのミイラ作りでは人間の器官がすべて保存されたが、
脳だけは例外―役に立たないと考えられていたのだ―で、
脳は指でかき混ぜられて鼻からえぐり出された。
その他の主な器官―胃、腸、肺、肝臓―はかめに移されて封をされ、
心臓だけは体内に残された。これはカール・ジンマーが
『Soul Made Flesh』(魂が肉体を作った)という本の中で述べているように、
心臓が「人間の生命と知能の中心」と考えられていたからだ。

プラトンは後期の著作『国家』のなかで、魂は三つ異なる部分
―「欲望」「気概」「理知」―に分けられ、「低級な」前の二つの部分は
その役目(空腹や恐怖など)を肉体から受け継いでいると説いた。

プラトンと同じく、アリストテレスも人間が持っている魂は一つだけとは
考えていなかった―彼も三つだと考えていた。(略)
アリストテレスによると、すべての動植物には生物学的な栄養や成長に起因する
「栄養」の魂が宿り、すべての動物には行動や活動に起因する「欲望」の魂が
宿っている。そして、人間だけに三つ目の「理性」の魂が宿っている。

最上位が数学と語学、次が人文科学、最下位が芸術科目である。(略)
おまけに、ほとんどの国の教育制度では芸術科目には序列がある。
たいてい、学校では美術や音楽が演劇や踊りより上位とされる。
数学は毎日教えるのに、同じように毎日子どもたちに演劇を教える
教育制度は地球上に存在しない。
(芸術と教育の専門家サー・ケン・ロビンソン)

18世紀のヨーロッパでは一時期、オートマトンが大流行した。
オートマトンとは、見た目や動きが本物の人間や動物にそっくりに作られた
からくり装置である。オートマトンのなかで最もよく知られているのは、
ジャック・ド・ヴォーカンソンが1739年に作った《消化するアヒル》である。

ヴォーカンソンはアヒルの体内に「化学実験室」があり、消化の仕組みを
再現していると主張したが、実際には緑に着色したパンくずを入れた
小袋が肛門の奥に隠してあって、食べた直後に後ろの切れ込みから
放出していただけだった。

「コーヒーカップと牛乳パックを手に持ち、賞味期限を確認せずに
それを注いだ」といった文でもそうだが、代名詞である「それ」が
なにを指しているのか理解するには、言語の仕組みではなく、
世界の仕組みを理解しなければならない。

2006年の米国標準技術局の機械翻訳コンテストでは、
グーグルのチームが圧倒的な差で優勝し、多くの機械翻訳の
専門家を驚かせた。グーグルのチームでは、コンテストで使用された
言語(アラビア語と中国語)をだれも理解していなかった。そして、
ソフト自体も同じように理解していなかったと言えるかもしれない。
このソフトは、意味や文法規則をなに一つ知らなかったのだ。
ただ人間による質の高い翻訳(ほとんどは国連の議事録からのもので、
この議事録はおかげで21世紀のデジタルのロゼッタ石になりつつある)
の膨大なデータベースを利用して、過去の訳文に従って語句を
つなぎ合わせたのである。

ハードとソフトの開発競争のおかげで、コンピュータは指数関数的に
高速になっているにもかかわらず、実際に使ってみるとまったく高速に
なっていないという奇妙な状況が続いた。ハードが開発されても、
ときにはそのペースを上回る勢いで、ソフトで要求されるシステムリソースが
増大していったためだ(たとえば、ウィンドウズビスタでオフィス2007を
動かすには、ウィンドウズ2000でオフィス2000を動かす場合と比べて
12倍のメモリと3倍の処理能力が要求されるが、実行スレッド数は
直前のバージョンの2倍足らずである)。
この現象は「アンディとビルの法則」と呼ばれることがある。
インテルのアンディ・グルーヴとマイクロソフトのビル・ゲイツを
指した言葉で、「アンディが与えしもの、ビルが奪い去れり」という意味である。

「彼女」の名前は、ジョージ・バーナード・ショーの1913年の戯曲『ピグマリオン』
の主役、イライザ・ドゥーリトルにちなんだもの。(略)
ある音声学の天才である言語学教授が、下層階級の出身であるイライザ・
ドゥーリトルに英国貴族の喋り方を身につけさせて、淑女として通用するように
訓練できるかどうか賭けをするのだ―まさに、一種のチューリングテストである。

実際、破壊活動を意味する「サボタージュ(sabotage)」という言葉の語源は
木靴の一種を意味するフランス語の「サボ(sabot)」であり、職人たちが
自分の靴を機織り機に投げつけて壊したという逸話に由来すると言われている。

『マイ・ディナー・ウィンズ・アンドレ』

「個人的な結論として、すべての芸術家がチェス棋士とは限らないが、
すべてのチェス棋士は芸術家である」とデュシャンは綴っている。

チェスの対局は第一手ではじまり、チェックメイトで終わると思われているが、
そうではないのだ。ゲームがはじまるのは定跡から外れたときであり、
終わるのは定跡に入ったときだ。

ガルリ・カスパロフがきょう負けるとしても、このサクリファイスなどの
手筋は、すべて《ディープブルー》のライブラリ、つまり序盤定跡の
ライブラリにあるだけであって、《ディープブルー》自体はなにもしていない
と考えられるということだ―ガルリが《ディープブルー》の勝ちとなることが
決まっている手筋の一つを選んでくれれば、《ディープブルー》は独自の
手を指す必要もないということかもしれない。

わたしは彼を制止し、激しい序盤のなかで、あるポーンの突きを使った
理由を尋ねた。彼の答えにわたしは驚かなかった。
「バリュホが使ったから!」スペイン人のグランドマスター、パコ・バリュホ・
ポンスが最近の対局でその手を用いたことは、もちろん私も知っていた。
だが、それを使う理由を理解していなければ、その少年はすでに
トラブルに向かって突き進んでいたことになる。
(ガルリ・カスパロフ)

チェッカーが地に落ちたのは1863年、スコットランドのグラスゴーでのことだ。
ジェイムズ・ワイリーとロバート・マーティンズのあいだでおこなわれた
チェッカーの世界チャンピオン決定戦は、40局のうち21局が
最初から最後までまったく同じ展開となった。
残りの19局も、序盤は「グラスゴー・オープニング」とあだ名されるようになった
同じ展開ではじまり、40局すべてが引き分けに終わった。

「インテリジェントデザイン」説の支持者によれば、人間とはデザインされた
ものであり、そに意味ではペーパーカッターや(支持者の好むたとえである)
懐中時計とほとんど変わらない。この考えに沿えば、
人間は年齢を重ねながら自分の「デザイン」、
つまり機能や目的を見つけるという考えにたどり着く。

だが、もしそれが、つまり定義という過程、すなわち目的を明らかにする
という過程そのものが人間の目的だとしたらどうだというのだろうか。
カート・ヴォネガットは「虎は獲物を追うべきもの/鳥は空を飛ぶべきもの/
人は座って「なぜだ、なぜだ、なぜだ?」と考えるもの」と綴っている。

ゲームには目標がある。人生にはない。人生には目的がないのだ。
これを実存主義者は「自由の不安」と呼ぶ。

僕の友人の脚本家は、以前に「素人の作品はすぐにわかる。
登場人物がちゃんとした文章で喋っているからね。現実には
そんな喋り方をしている人なんていない」と言っていた。

二人の人間がしばらくのあいだ同時に喋っているとわけがわからなくなるのは、
自分の声が相手の声と混ざってしまい―耳のすぐ近くにある口から
発せられるため―、相手がなにを言っているのか聞き取りにくくなるからだ。
聴覚障害者にはこうした問題が起こらないと知り、僕は感銘を受けた。
彼らは、自分で手話をしながら他の人の手話を見ることができるのだ。

言葉とは不思議なものだ。コミュニケーションの専門家たちが
「七―三八―五五のルール」みたいなことをよく口にするのを耳にする。
このルールは、1971年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校の
心理学教授アルバート・メラビアンが最初に発表したもので、
話すときに相手に伝わる内容の55パーセントがボディランゲージに
よるもの、38パーセントが口調によるもの、選んだ言葉によって
伝わるのはわずか7パーセントというルールである。

英語のネイティブであれば、シェイクスピアによる造語を一切使わずに
日常会話をすることはほぼ不可能だ。「息を殺して(bated breath)」
「心の奥底で(heart of hearts)」「厄介払い(good riddance)」
「お決まりの言葉(household words)」「潮時(high time)」
「ちんぷんかんぷん(Greek to me)」「日がな一日(live-long day)」
などなど、数え上げればきりがない。

2008年のローブナー賞の主催者は、レディング大学のケヴィン・
ワーウィック教授だった―彼はマスコミのあいだで「世界初の
サイボーグ」としても知られている。1998年に、彼は無線ICタグの
チップを自分の腕に埋め込んだ。(略)
さらに最近、彼は二回目となる、より大胆な手術を敢行した。
100個の電極アレイを直接自分の腕の神経に接続したのだ。
(略)たとえば、電極アレイで脳からの神経信号をロボットの腕に伝え、
ロボットの腕に自分の腕と同じ動きをさせるという実験に成功した。

ジョナサン・サフラン・フォアの『Extremely Loud and Incredibly Close』
(『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』)という本に登場する
語り手の一人は「どんな本も、わたしにとってはイエスとノーの
バランスである」と述べている。読書を非常に素早い連続的な推理だと
考えれば、シャノンのゲームとは読書の仕方の一つ、それも非常に
丁寧な読書の仕方そのものである。読書で得られる満足感の大部分は、
イエスとノーのバランス、納得と驚きのバランスにあるように思える。

友人のデヴォンは、長編アニメーション映画のコンピュータ生成画像
(CGI)を担当している。CGI映画の世界とは奇妙な世界だ。
現実を手本としてはいるものの、現実的であることを目指しているとは
限らない(ちなみに、デヴォンによると「本物に見えるものの範囲は、
本物だけでなくもっと広い」。)

「鋭い縁かな―なんでも、どんな種類のものでも構わないから、
人工物の見た目に、ビルだとか、テーブルだとか、そういう物体に
鋭い縁があれば、すべての縁が本当に鋭く見えれば、それは
描画がうまくいっている証拠だ。明かりが灯った部屋の隅を見てみると
―暗さが適切でない場合や、暗すぎる場合もある……表面のでこぼこ
とか不規則性とかもそうだ―どんなたぐいの不規則性でも同じなんだけど。
これらはいずれも―コンピュータで作り出そうとすると―とてつもなく難しい。
どれだけ不規則でどれだけ規則的なのか、さらにはどんな質感なのかまで、
そういったことを僕らは探る。だけどいま挙げたのはどれもこれも基本だ。
さらに一歩踏み込んで、光が物体に当たってどう反射するかだとか、
たとえば、赤い壁が白い壁の隣にあるとして、この赤が白にどう映り込むか
だとか、そういうことを考えなくちゃいけない。」

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