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本『物語工学論』

『物語工学論 キャラクターのつくり方』
著 新城カズマ
角川文庫

新城カズマによる物語論。
7つのキャラクター類型から、“物語”の構造を解説。

ここでいう7つのキャラクター類型とは
・さまよえる跛行者(オイディプス、オデュッセウス、宮本武蔵)
・塔の中の姫君(シンデレラ、ラプンツェル)
・二つの顔をもつ男(バットマン、仮面ライダー)
・武装戦闘美女(アルテミス、オスカル、綾波レイ)
・時空を超える恋人たち(ロミオとジュリエット、タイタニック)
・あぶない賢者(フランケンシュタイン、ファウスト)
・造物主を亡ぼすもの(フランケンシュタインの怪物、マトリックス)

それぞれの類型は相互に関連しており、たとえば
『カリオストロの城』のルパンとクラリスは
現代的な<跛行者>と<姫君>のペア。

キャラクターができれば物語ができるわけで、
ここらへんは大塚英志『キャラクターメーカー』でも書かれていますね。
こういうのが頭に入っていると小説や映画を見ながら
キャラクター分類をして、物語の構造を考えるのに役立つかと。

新城カズマの小説自体は読んだことがないのですが、
『われら銀河をググるべきや』など、書くものは本当におもしろい。

◆読書メモ

先述のレヴィ=ストロースは論文「神話の構造」でこれを分析して、
登場する人物の名前や逸話が常に「歩行(と、その不安定性)」に
関連すること等を指摘しました。オイディプスの名は「腫れた足」を
意味します。その父王ライオスは「左側」を、さらにその父である
ラブダコスは「跛行」を意味しているとレヴィ=ストロースは見なしています。

キャラクター類型というのは実は動機(さらに極言するならば、
物語が停止する条件そのもの)と深く結びついています。

抑圧的・閉鎖的であるのは実はそうした「日常的な事柄」の
ほうであって、特異な閉鎖環境やドラマチックな物理的環境状態には無い
……それが我々の直面する社会の特性となりつつあります。

たとえば「クラスの和を乱さない」とか「みんながカワイイというものを
カワイイと思う」といったような、所属する集団の意見に賛同しなければ
ならないという「同調圧力」によって閉じ込められる<姫君>と、
そこからの「解放」の物語こそが、今後の新たな動機(=物語
=キャラクター)の方向性なのかもしれません。

『アップルシード』が先駆的に登場し、『攻殻機動隊』が話題となり、
そして今や『エヴァンゲリオン』『涼宮ハルヒの憂鬱』『ひぐらし』の
溢れる中で暮らす我々としては、
自分の顔が二つあるのか一つしかないのか
あるいは、
それらの顔のいずれかを隠さねばならないのか
という問題よりも、
そもそも本当の自分の顔はどれ(であるべき)なのか
はたまた、
「本当の自分の顔」と「もうひとつの自分の顔(ひいては自分以外の
すべて)」の相互コミュニケーション成功率は、なにゆえこれほどまでに
低いのか
……といった複雑な課題に直面しているのかもしれません。

英国では1837年に「スプリングヒール・ジャック(バネ足ジャック)」
という怪人の目撃例(というよりも都市伝説)が広まりましたが、
「彼」は早くも三年後の40年には芝居の登場人物になっています。
当初は怪人・悪漢扱いであったのですが、49年には「某国のスパイ」
という設定になり、さらにその後は「親の復讐をするために
悪い領主を倒してゆく」物語に発展してゆきます。
 ちなみに当時、英仏海峡のむこう側のフランスでは三銃士が
大ブームになっており、英仏に英雄が相並び立つ様はまさしく
近代ヒーロー元年の感があります。
 これらの多くは相前後して日本に紹介されており、大戦戦後の
懐かしき国産ヒーロー(たとえば黄金バット、砂漠の魔人、
怪傑黒頭巾、鞍馬天狗、旗本退屈男、等々)
に影響を与えていると考えられます。
 さらに翻って19世紀前半、英国では『アイバンホー』、独立前後の
アメリカではクーパーの『モヒカン族の最後』をはじめとする
「レザー・ストッキングもの」が盛んに読まれました。義賊の系譜を
たどってゆけば、それこそ鼠小僧から石川五右衛門から、
近世中世を通り越して古代まで到達できるかもしれません。

<二つの顔をもつ男>にふさわしい近代的法秩序のある社会というのは、
同時に、近代的矛盾を有する社会でもあります。すでに、警察が無能/
腐敗しているから覆面のヒーローが活躍する大義名分が立つことを
指摘しましたが、これはよくよく考えれば非常に難しい問題を孕んでいます。
……ヒーローたちの存在する社会は、では、どこかしら不完全で不幸で
腐敗していなくてはいけないのだろうか?
……逆に、警察が完全な正義遂行能力を持ったらどうなるのか?
そのような「力」を公的な機関が持つことは、かえって危険ではないのか?
……そもそも、正義を完全に達成するとはどういうことなのか?
誰が正義を定義するのか?

もう少し現実的な理由から彼女たちが「受ける」理由を分析するならば、
非常に皮肉なことに、そこには現実の社会の大半(あるいはそのすべて)
が古代から現代に至ってもなお男性優位であるという逆説的な論理が
垣間見えてきます。(略)
 読者たちをとりまく現実の女性(もしくは女性像)が「弱いもの」
「優しいもの」「守られるもの」であればあるほど、それが一転して
「強く」「猛々しく」「自らを守る」ことになれば、さらにはそれらをも超えて
「攻める」ものとして登場すれば、驚きは大きくなるはずです。
役割分担という「非対称性」が、ここでは「落差」として時間的・視覚的に
具体化しているのです。

本書はあくまで物語工学という「思考の枠組み」を試みに提案しているのですが、
そいした工学が今後なんらかのかたちで発展するとすれば、
それはまず何よりも二人のマンガ家の力、すなわち永井豪の天才と
和田慎二の異才に依るところが大なのです。
なぜならば、そもそも「物語」と「工学」を組み合わせるという発想を
本書の著者が初めて見かけたのは、前者の『キューティーハニー』および
後者の『スケバン刑事』の企画段階を語る随想においてだったのですから。

「ツンデレ」という類型は果たしてキャラクター類型なのか、
それとも物語の過程なのか、あるいはそれ自体が<障壁>なのか、
というのは案外に難しい問題です。そのキャラクターの中に
<障壁>があり、それが定期的に弱体化する、という分析はそれなりに
有効ではあるでしょうが、しかし一方でツンデレを<二つの顔をもつ男>
の亜種として落ち着かせることも可能かもしれません。

なぜ物語がある程度持続せねばならないのか、そして「ある程度」とは
どの程度が最適であるのか、等々については、これまた議論の余地の
あるところです。(略)ここでは一時的なヒントとして「伝聞と実体験の
違いは、脳内の情報処理過程において、どう違うのか?」という問いは
無視できない、と指摘するにとどめましょう。

SFホラー映画などで狂気に憑かれた科学者が怪しい実験をおこなう
際には必ずと言ってよいほど雷が鳴ります。実はこれは映画版の
『フランケンシュタイン』から始まっており、原作には特段嵐の夜に
狂気の実験を敢行したという記述は強調されません。ただし、
19世紀初頭においては「電気」というものが生命現象と深く関わって
いるらしいと考えられていたこと、にもかかわらず未だ電気の正体が
判然としていなかったこと、等の影響はあると思われます。

『スター・ウォーズ』を創りあげたジョージ・ルーカスも、
青年時代にはベトナム戦争の報道に関心を抱きつつ
故郷の町から旅立つ日を夢見ていたのであり、彼の創り出した
若き英雄ルーク・スカイウォーカー=天を歩む者ルークの名は、
作者である「地を耕す者ルーク(Geoge Lucus)」の巧妙な語り直しと
なっていることに注意深い観客は気づかざるを得ません。

そのオリジナル信仰って……まさに信仰だとおもうんだけど……
それが極まったなぁと思うのは、例の不思議なお名前を子供に
つけたがる最近の親御さんたちで。このごろ気づいたんだけど、
あれって自分の子供に無料で個性(オリジナリティ)を与えられるんだよね。

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