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本『エンジン・サマー』

『エンジン・サマー』
著 ジョン・クロウリー
訳 大森 望
扶桑社海外文庫

「決めの一行」のスゴ本オフで紹介されていた一冊。
「本を閉じることがこれほど惜しいと思ったことはなかった」
「絶版なので図書館で借りましたが、この本をまた誰かが借りて読むかと思うとぐっとくる」
ということで、私も図書館で借りてみました。

紹介者の方があげていた一行はこちら。

「教えて。ぼくはなんなの?
<しゃべる灯心草>。
それじゃあ答えにならないよ。
いま真実なのはそれだけ。」

これだけ読んでもなんのことかわかりませんが、読み終わったあとだと、
この「真実」は深い意味をもっていることがわかります。

しゃべる灯心草とかコードとかリトルベレアとか、
固有名詞が多く、世界観がわかりにくいので、最初のうちは物語に入っていくのが
なかなか難しかったのですが、あとから考えるとこれはわざとそういう構成になっている。

「灯心草」と呼ばれる(おそらく)少年が、「天使」と呼ばれる少女(らしい)に
自分の生まれた故郷「リトルベレア」、そこに語り継がれる物語、
自分の旅を語るという話なのですが、これも最後まで読むと「真実」がわかる。

天使はクリスタルの切子面に彼の語る物語を記録していくのですが、
今だとICレコーダー、この小説が書かれた1979年だと
カセットテープレコーダーだと考えるとわかりやすい。
そんな感じにファンタジーの衣装をまといながら、物語は現代を反映しているようです。

「電話。その時代、天使たちが昇降機に乗り、距離を越えて話し、
連帯を求めれば求めるほど、孤独がつのってゆくようだった。
世界がせまくなればなるほど、おたがいのあいだの距離が広がるようだった。」

「こうしてコープの人々がたがいの距離を縮めるにつれてわかってきたのは、
この機械(エンジン)を使ってだれかと話すのは、
面と向かって話すのとはちがうということだった。
電話でなら、面と向かっていえないことがいえる。思ってみなかったことをいってしまう。
嘘をつくことも、針小棒大にいうこともできるし、誤解されることもある。
なぜなら、人間にではなく、機械に向かって話しているからだ。
電話を正しく使う方法を学ばなければ、コープは立ちゆかないと彼らは思った。」

〈絵具の赤〉が語る、昔あった「電話」の話など、インターネットのことにも思える。
この反省を踏まえて、リトルベレアの人々は
「口にするとおりのことを心に思い、心に思うとおりのことを口にする」
「真実の語り」を身につけています。

読み終わって私が一行選ぶとするなら、
<灯心草>の恋人<ワンス・ア・デイ>の言葉。
「いまが春よ」

これもこれだけ読んでもなんのことかわかりませんが、
そもそも魅力的なタイトル『エンジン・サマー』とは日本でいう「小春日和」、
英語でいう「インディアン・サマー」をこの世界ではこう呼んでいる。

「ささやかな、いつわりの夏。ささやかな、いつわりのものだからこそ貴重な夏。
リトルベレアではそれを―だれも知らない理由から―
機械の夏(エンジン・サマー)と呼ぶ。
たぶん、終わりのない夏に思えるからだね。」

「愛がけっして終わらないものだと考える人にとっては、
べつに不思議なことじゃない。愛は季節とよく似ている。
そんなことがありえないのはわかってるさといくら自分にいいきかせても、
この季節はけっして終わらないという気がすることがあるから。」

「春になったら」とぼくはいった。「もどってくるね」
「いまが春よ」

恋人たちの永遠の夏、エンジン・サマーへの別れの言葉ではないかと思うのです。


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